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2007年2月の23件の記事

2007/02/28

“演出” との説明に納得できるか?

asahi.com
物議醸す「演出」相次ぐTV局 “弁明”に納得できる?
2007年02月23日

 以前私が書いた記事と同じような感想を、プロの記者が書いている。少しほっとした気分になった。同じように疑問に感じていた人間が自分以外にもいたことが確認できたからだ。

 私は自分の直感や肌感覚を大事にしている。とはいえ、それが自分だけの独りよがりになってしまっていないかという危機感もある。それは大多数の意見に自分を合わせるということではない。自分の意見や感覚が、一定以上の人たちから共感されるか、という危機感である。いくら自分で良い、正しい意見や考えだと思っても、それが多くの人に支持されなければ、結局は “良い” 意見や “正しい” 考えになりえないと思っているからだ。

 私が自分が正しいと思う考えを表明するのは、それがより多くの人たちを幸せに、あるいは安心させたいと思っているからだ。それは、より多くの人が幸せになり、安心して暮らしていける社会ならば、自分も幸せに安全に暮らしていける、との思いからだ。

 自分が幸せなら、他人のことなどかまっていられない。そういう考えもあるだろう。そういう考えを完全に否定するほど、私には自分に自信があるわけではない。しかし、他人の不幸を省みずに自分の満足を追求すれば、そこにはいずれ不毛な争いが起こると私は思っている。そんな不毛な争いは結局は、自分の満足だけを追及した人さえも不幸にする。だから、私は他人の不幸を省みずに自分の幸せや満足感を追及する人を非難する。

 今度のテレビ局の一連の “ねつ造” 事件も、視聴率を上げる(それはひいては番組制作者の経済的利益をもたらす)という、番組制作者だけの幸せの追求だと、私は思っている。そのねつ造情報で無駄な努力をした不幸な人たちを大勢作った、ということが私には許せない。

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2007/02/27

なにごとも調べてみないとわからないもの

 家の近くのバイク屋に張り紙がしてあった。曰く、「残念ながら閉店することになりました。」 と。そして、続けてこう書いてあった、「近日中に 『ハーレーダビットソン』専門店として開店いたします。」 数日後に、予告どおりに開店していた。

 その店の改装を見ながら私は、「周りに商店街も何もないこんなところで、専門店を出してやっていけるのか?」 と鼻で笑っていた。しかし数日後に私は、その考えがまったくもって認識不足であることを思い知らされた。

遅咲きライダーのバイクライフ(BMWF650GS)
二輪車の統計を10倍楽しく(?)見る方法

 ここに2006年のオートバイ新車登録台数の統計が紹介されている。

 “HD” というのがハーレー・ダビットソンである。この統計によれば、ハーレー・ダビットソンの2006年の新車登録台数は1万4千台。401cc以上に限定すれば、なんと日本のトップシェアである。オートバイ全体での日本の(おそらくは世界の)トップシェアである “世界のホンダ” よりも3割も多く新車登録されている。これはまったくもって私にとって ‘想定外’(^^;) であった。

 401cc以上であれば1台あたりの単価、利益は、売り上げ数が何倍も多い原付バイクとは比較にならないくらい大きいはずである。さらに、401cc以上でしかもハーレー・ダビットソンに乗るほどのライダーであれば、メーカーに対する忠誠心もかなり高いことが容易に想像される。オートバイのカスタム化でも、かなりのお金を使っているはずだ。そう考えれば、バイク屋がハーレー・ダビットソン専門店に切り替えたのはまったくもって正しい。もちろん、店主が単にハーレー・ダビットソン ヲタクと化したという可能性も、なくはない。(笑)

 たしかに、ハーレー・ダビットソンは人気のメーカーであることは知っていた。しかし、それはごく一部の人たちのことであると私はずっと思っていた。が、実際はそうではなかった。

 まったくもって、“調べてみないと本当のことはわからない” ものである。

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2007/02/26

睡眠時間 と 集中力 と

 私は6時間睡眠でだいたい十分だ。一方、カミさんは8時間は睡眠をとらないと疲れが取れないらしい。可能であれば、10時間程度ほしいそうだ。そんな二人の違いを、今まで 「そんなもんかな」 程度にしか思っていなかった。

 ところがふと気がついた。カミさんは、夜、熟睡しているはずの時でも、ちょっとした物音で目を覚ましてしまう。子供のセキや私が夜中にトイレに起きだすときの音などで、目を覚ましてしまうらしい。一方の私は、一度寝てしまえばちょっとやそっとのことでは起きない。子供に顔を蹴飛ばされても、朝目がさめてようやくそのことに気がつく。もし私が草原の草食動物だったら、真っ先に肉食動物の餌食になっているに違いない。(^^;)

 つまり、私は眠りが深いので、短時間の睡眠でも十分。カミさんは眠りが浅いために長時間の睡眠が必要。そういうことなのではないかと思ったわけである。

 それだけならば、まったくもって当たり前すぎる話なのだが、起きているときの違いも気になっていた。集中力の差である。

 私は、なにか集中して仕事をするとき、たとえばこのブログを書くとか、は、周りに雑音があるとどうしてもそっちに注意がとられてしまい、本来やるべき作業の効率が著しく低下してしまう。なので、会社で働いているときなど、耳栓をして作業に集中していたほどである。好きな音楽でさえ集中力の妨げとなる。

 カミさんは逆に、一度なにかに集中すると、大声で呼びかけても返事がない。集中しているカミさんを振り向かせるのは一苦労である。テレビに集中していたり、パソコンの作業に集中しているときのカミさんに話しかけても、ほぼ100%覚えていないし、そもそも聞いていない。だからカミさんも、寝るときには寝ることに集中してくれれば、ちょっとした物音で起きることもないのだろうけど、世の中、なかなか思うようにはいってくれない。

 で、私が気になったのは、“起きているときの集中力” と “寝ているときの警戒心” には関係があったりするのか?ということである。相関があったとしてもなにかの役に立ちそうにはないのだが、なんとなく気になった。

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2007/02/24

私の考える少子化対策

 前日の記事を受けて、私なりに考えている “少子化対策” について書こうと考えた。

 なぜ少子化が進んでいるのか?
 私は単純に、“子供を育てることが将来の自分の生活の豊かさ” につながらないことをみんな知ってしまったからだと考えている。

 100年前、200年前であれば、日本人の大半が農業や商業で生計を経てていた。今のように組織のために働いて、“給料” をもらう人は少なかった。

 農業や商業においては、頭数の数が多ければ多いほど収入の拡大につながっていく。つまり、子供を立派な労働力として育て上げれば、それだけ将来の収入増につながるわけである。幼少のころの子育ては、いわば “投資” である。

 振り返ってサラリーマンの子育ては、今や “趣味” の世界になりつつある。趣味=実用性がない、という意味である。もちろん、“老後の面倒を見てもらう” という意味の先行投資の場合もあるだろう。しかし、子供が自立をして独立した家計をもてば、親の収入増ということはないことになる。

 そこで私の提案である。

 定年退職後の今の年金を一切無くして、年金の代わりに、育てた子供が払った税金の一定額が親の生活費として支給される、と言うものである。

 もちろん、これがそのまま実現するとは思っていない。でも、若いときに一生懸命子育てをして、多くの子供を数多く一人前にすれば、老後の生活が豊かになる、とすれば、一生懸命に多くの子供を作って、しっかりと育児をする夫婦が今よりも増えるのではないかと思っている。

 また、子育て中ではなく、子供が一人前となり、社会で収入を得るようになってから、子供を育てた報奨金がもらえるようになるのは、最初に書いた農業や商業と同じ形をとりたかったからだ。

 だからといって、『女性は産む機械』 などとは、私は思っていない。子育てをするもしないも自分で決めることである。子育てに金を使わずに、自分たちのために老後まで残すという選択肢もあっていい。

 とにかく今は日本政府・官僚が、子育てをあまりにも家庭に押し付けすぎている気がしている。子供を育てても政府からはあまり援助が受けられるない。子供が一人前になった後の見返りもない。政府は子育ての負担を、ただ個人に押し付けるだけでなく、もっと、社会全体として子育てを考えなければ、絶対に少子化はとまらないと思う。

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2007/02/23

日本の地域社会は子供を許容しなくなってきたのか

 学校からお知らせがきた。

 『通学路での子供たちの行儀が悪く、学校に苦情の電話が多くかかってくる』 ということだった。『学校周辺地域の住民の方の迷惑にならないように、家庭で十分な指導をしてほしい』、という内容だった。

 言っていることは、間違っていないと思う。地域でお互いに平穏に生活していくためには、それなりの配慮が必要である。子供であってもそういった配慮を少しずつ身につけていく必要がある。

 私が気になったのは、子供が多少ハメをはずした行動をしたからといって、それをいちいち学校に苦情を言うことが当たり前になってしまった地域社会に対してである。苦情の内容は、「歩道いっぱいになって歩いていた」、「大声で騒いで歩いていた」、「歩道を走っていた子供たちとぶつかりそうになった」 といった、子供ならどちらかと言えば仕方のない行動である。通報した本人たちも子供のころはおそらく同じようなことをしていたと思う。しかし、大人になると自分が子供のときのことを忘れて、子供が道路ではしゃいでいるのを見て、不愉快になり、学校に苦情の電話をかける。

 迷惑だと思ったら、子供たちを直接注意すればよい。たしかに、知らない子供を注意すれば、“変な人” 扱いされてしまうような世の中になってしまったという問題もある。しかし、わざわざ学校に自分の不満の解消を求めるところに、私は今の日本の地域社会が、子供の存在を許容しなくなっているように感じた。

 地域社会の空気が、規律を乱す行動をとる者達を、匿名で排除しようとしている。子供も例外ではない。一方、子供はそんな大人の規律など知らずに、自由に行動する。すると、その地域社会は子供を邪魔の物として排除しようとする力が働いてくる。

 子供の存在がなんとなく邪魔な空気ができてしまうと、子供を抱えている家族は、当然その地域で居心地が悪くなる。子供がなにかするたびに、親が地域社会からいろいろと苦情を言われるようにもなるだろう。

 そんな地域社会の空気をずっと見ていれば、若い世代は、「自分は子供をもちたくない」 と思うようになって当然である。かくして、少子化はいっそう進んでいく。

 私が住んでいる東京は、特別なのかもしれない。東京では、隣近所で深いつながりをもたず、なるべく干渉しあわずに生活をすることが暗黙のルールとなっている。そして、自分の安定した生活を脅かす見ず知らずの子供を、“自分の邪魔をする存在”として見てしまうような気がしてしょうがない。

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2007/02/22

どうもパソコンメールとケータイメールは違うものらしい

夜の携帯メールは迷惑??
(大手小町 > 発言小町 > 心や体の悩み)

 これを読んでちょっとしたカルチャーショックを受けた。どうやらケータイメールには、パソコンメールにはない独自の “マナー” というものがあるらしい。ログの日付を見ると2004年になっている。さらにその以前からメールマガジンの配信時間が問題になったことがあった、というコメントも見られる。そのことから、パソコンメールとケータイメールの差異はずいぶんと古い問題ということがわかった。私がケータイをもつようになってからまだ2年も経っていない。しかも、ケータイのメールアドレスは、市区町村の緊急通報メールにしか登録しておらず、友人にはパソコンメールのアドレスしか教えていない。私がもっている友人のメールアドレスも、すべてパソコンのものである。私がケータイメールのマナーをぜんぜん知らずにいたのもそんな理由からだ。

 そもそも、“メール” システムは、基本的にインターネット メール システムを使っているわけだから、“パソコンメール” と “ケータイメール” と言い分けること自体、変な話ではある。しかし、パソコンに受信するメール と ケータイに受信するメール では、たしかに異なる “マナー” が存在するようだ。

 私の考えている “メール” は、

  1. 電話と違い、相手の都合を考えずに自由な時間に発信できる。
  2. 受け取ったメールは自分の都合のいい時間に読むことができる。
  3. 音声と違って記録に残しやすい。
  4. 通話と違い、即時性や確実性は低い。(メールがすぐに届くとは限らない。もしかしたらメールが届かないかもしれない)
  5. 最近では、スパムメールに埋もれてしまい、相手に届いても読まれずに捨てられる可能性もある。(実際にそういう経験あり)

というものだ。そしてこれは、主にパソコンを使ってメールのやり取りをする人の常識のようだ。

 一方で、ケータイからメールを始めて、パソコンではほとんどメールをやらない人たちの常識は少し違うようだ。上の一覧と対比をして書くと、

  1. 電話と同様に、相手の都合を考えて発信しなければいけない。
  2. 受け取ったメールはすぐに読んで返信しなければいけない。
  3. 通話にしないのは、記録に残しやすいことと、料金が安いため。
  4. 通話と同様に、発信するとすぐに相手に届く。(と信じられている。)
  5. ケータイで緊急メールを受けたり、目覚ましに使うことが多いので、夜中であっても電源は切らない。(ので、夜中のメール受信は迷惑)

ということになる。

 パソコンメール出身者の私の気持ちとしては、相手の時間的都合を考えずにメールしたい。特定の時間にメール着信で起こされたくない人は、自分のケータイの設定で対応してほしい。

 発言小町のコメントを読むと、「ケータイで緊急連絡を24h受け取らなくてはいけないので、電源が切れない。だから、メールを出すほうが配慮するのがマナーである。」 という発言があった。これなど私には大いに “?” である。インターネットメールは確実性に欠けるシステムである。どこかの中継サーバーでメールが遅延するかもしれないし、何らかの理由で消失するかもしれない。そういったシステムを緊急連絡に使う会社や組織は、その危機管理体制を私は疑う。緊急連絡が通話で入るのであれば、メールは関係ない。メールの着信に煩わされたくない時間は、メールの着信を無音にすればよい。
 「離れている家族の関係で夜中でもケータイの電源は切れない。」 と発言している人にも同じことが言える。

 とはいえ、具体的な数字は忘れてしまったが、(ケータイメールユーザー数)>(パソコンメールユーザー数) なので、ケータイメールの常識、マナーが、メール社会全体における常識、マナーになる可能性がある。ケータイメールの常識、マナーが正しいのか、パソコンメールの常識、マナーが正しいのかは置いといて、自分が不要なあつれきやトラブルに巻き込まれないようにするには、やはり “ケータイメールのマナー” をよく理解して、それに抵触しないようにしたほうがよさそうである。以前の記事に書いた “自分の身は自分で守る” の実践である。

 それでもやっぱり、相手の活動時間を気にしながら発信をしなければいけない “メール” には、やはりどこか釈然としないものがある。

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2007/02/21

テレビ関係者は一度テレビ業界から離れたほうがよい

「トリビアの泉」で過剰演出が発覚…一昨年9月放送 (サンケイスポーツ) [ 2007年2月15日4時17分 ]

飼い主として、その犬が所属する動物プロダクションの男性社長を出演させた。さらに、犬がこの社長に近づくように社長の服にドッグフードを入れた。

「演出であり、やらせやねつ造ではないが、ありのままの調査を伝える番組の精神を考えると反省すべき点もあった」とコメントした。 

例の “発覚!あるある” 問題に引きずられて出てきたようだ。

 この 「演出であり、やらせやねつ造ではない」 というあたりに、今のテレビ放送業界の常識を疑う。“飼い主が倒れた場合に” としているにもかかわらず、実際には飼い主とはいいがたい人物を使っていたのだ。これは “やらせ” “ねつ造” といわれても仕方のないやり方だと、私は思う。しかしこれも過剰な “演出” として、結局はうやむやにされてしまうのだろう。

 私もかつてパソコン業界で働いていたころ、「パソコンは2~3年で買い換えるのが当たり前」、「ソフトは1~2年でバージョンアップして当たり前」 と思っていた。
 ところが、3年パソコン業界から離れてみると、2~3年の買い替え、1~2年のバージョンアップが、一般消費者の常識から外れていたことをしみじみと感じる。

 同じように、テレビ業界にどっぷりと使っている人たちも、一度2~3年業界から離れてみればよい。そうすれば、自分たちがいかに一般常識からはなれたところにいたかが見えてくると思う。

 この件でも、今のテレビ番組がまったくもって信用できないことをあらためて認識させられた。

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2007/02/20

箱の横に顔文字が

Hako_1 ネット通販で購入したときに送られてきた箱の横に、こんな顔文字が書かれていた。

 たいしたことではないのだが、こんなところにまで使われるようになったのだから、顔文字も “普通” になったんだな、と思った。

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2007/02/19

プリンター iP7500 画彩 光沢仕上げ はがき 編

 以前に数種類の光沢ハガキを比較するために、ずいぶんと光沢ハガキ用紙を買い込んだ。その後、年末年始にとった写真の印刷やら、性懲りもなく行う印刷テストやらで、そのときに買い込んだ光沢ハガキ用紙もさすがに底をついた。

 以前の結果を踏まえれば、エレコムの “キヤノン用光沢ハガキ” を購入するところなのだが、時間がなくてヨドバシカメラまで買いに行けない。仕方なく近くの家電量販店で、光沢ハガキ用紙を買うことにした。残念ながらその家電量販店では、エプソン、キヤノン、そしてフジフィルムの用紙しか置いていない。すでに実験しているキヤノンのフォト光沢ハガキを買う、という選択肢もあった。しかし、値段の安さ(120枚/950円)に引かれて、“画彩 光沢仕上げ はがき” を買ってしまった。(^^;)

 買ったからにはまずは出力テストである。今回は自作のテストパターンは使わずに、こちらの画像(HPインクジェットプリンタ  第2回 HP Photosmart 8753の経済性を検証する)を使わせてもらった。この電塾出力検査チャートには、単色のチャートだけではなく、花や野菜や風景が入っている。そして一番重要な人間の肌を検証することができる。私の場合、子供の写真を印刷することがほとんどなので、人の肌をきれいに忠実に再現できるということが重要となる。以前に自分が作ったカラーチャートでは、単色での色再現性しか見ることができない。それだと、チャート上では色再現性がよさそうに見えても、いざ実際の写真を印刷してみると、微妙に 「違うな~」 と思うことがよくある。

 まずは、用紙設定の比較をした。プリンタドライバーの用紙の種類を以下の設定でそれぞれ印刷してみた。

  • プロフォトペーパー
  • スーパーフォトペーパー
  • マットフォトペーパー
  • 光沢紙
  • 高品位専用紙
  • 普通紙

 印刷結果を見ると、“スーパーフォトペーパー” と “光沢紙” がよさそうである。“プロフォトペーパー” は解像度の点で優れていたが、色はかなり黄色がかっていた。“マットフォトペーパー”、“高品位専用紙”、“普通紙” は解像度が足りず、のっぺりした印刷結果となり、問題外であった。

 メーカーの推奨でもあるということで、画彩 光沢仕上げ はがき に対しては、“光沢紙” を使うことにした。

 色のマッチングについては、以前に苦労して見つけた “ICM を使った印刷” を継続して利用している。

 色の再現性を見ると、肌の色が黄色に傾いている。とはいえ、印刷後の写真だけを見せられれば、「こんなもんかな」 と思う程度である。極端におかしいわけではない。あちこちのサイトを調べてみると、もともと紙に黄色がかっているので、ある程度の黄色かぶりは仕方ないことらしい。しかし私には、黄色かぶりがどうしても気になった。

 そこで、プリンタドライバーのカラーバランスを調整することにした。黄色がかぶっているので、単純にイエローの濃度を下げることにした。調整の基準は人の肌の色である。カラーチャート内の黄色を比較しても、差はよくわからない。

 何回か下げ幅を変えて印刷した結果、“イエロー -15” で画面上の色にかなり近づいた。これ以上の微調整は、さまざまな写真を印刷してみないとわからないと思ったので、今回はこれで良しとした。
 

まとめ

 “フジフィルム 画彩 光沢仕上げ はがき” に対して、私の環境においては、

  • 用紙の種類:   光沢紙
  • 印刷品質:     品位 2、誤差拡散
  • カラーバランス: イエロー  -15
  • ICMを使用:   オン

とした。

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2007/02/17

“紙” か “プラスチック” かと聞かれたら?

 前日の “買い物時のビニール袋” の記事を書いていて、思い出したことがある。13年前に1年半生活していたアメリカでの買い物である。

 今はどうか知らないが、当時、行きつけの大型スーパーで買い物をすると、レジでかならず、

“Paper bag? or plastic bag?” (「紙袋にしますか? それとも、ビニール袋?」)

と聞かれた。取っ手のついているビニール袋の方が使いやすいと思うのだが、当時からエコロジーな人も多くいたのだろう。紙袋を選択する人も多かった。

 私は特にこだわりはないので、「どっちでもいいです。」 と答えたかった。しかし、アメリカにいった当時は、まともな日常会話もできないほどに英語ができなかった。“Paper bag? or plastic bag?” も何度も聞きなおして、ようやく理解できたくらいである。「どっちでもいいです。」 という英語がとっさに出てくるはずもなく、「ぺーぱー」 だの 「ぷらすちっく」 だのと、その時々に応じて答えていた。

 数日後、私の前でレジを済ませていた人が、“Paper bag? or plastic bag?” と聞かれたのに対して、すごくスマートに答えていた。あまりにも簡単でスマートだったので、私にも理解できた。

「いっと だずんと またー」

そう

“It doesn't matter.”

これだけでよかったのである。「どっちでもかまわないよ」 と。これひとつ覚えただけで、なんかアメリカのスーパーでの買い物をマスターした気分になったものである。(笑)

 ちなみに、アメリカにいって初めてすらっと出てくるようになった英文は、

“It doesn't work.”

であった。アメリカでの職場にいってあてがわれたパソコンが、“マウスは動かない”、“ネットワークには接続できない”、“フロッピードライブは動かない” の散々な状態であったことが原因である。

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2007/02/16

いつまで「袋はいりません」といい続けなければならないのか

 私は買い物に行くときに、かならず買い物袋、いわゆる “マイバッグ” をもって行く。

 にもかかわらずお店では、自分から 「袋はいりません。そのままで結構です。」 といわなければ、強制的にビニールの手提げ袋に入れようとする。

 理由はいくつかあろう。

  • ビニール袋に入れるまでがルーチンワークになっているため無意識にやってしまう。
  • ビニールに入れたほうが、代金を支払ったものという区別がつきやすい。
  • 下手に気を利かせて 「ビニール袋はいりますか?」と聞くと気の利かない店と店員と思われる

などなど。

 買い物バッグを推奨している行きつけの大型スーパーでも、ビニール袋が “いらない” 人が、買い物かごに “袋いりませんカード” を準備しなければいけない。買い物バッグ推奨なら、なぜ逆に “袋くださいカード” にしないのだろう。袋をもらう人の方が多いから?袋をもらうのが常識だから? だからこそ、ビニール袋をもらうためには、「意思表示をするという “努力” が必要なんですよ」 というふうに考えてもらうようになってほしい。

 たまに行く生協では、“袋なし&袋有料” がすでに定着している。商店街の小さな店でも、袋を優良にして、「袋1枚につき5円いただきます」 ときちんと説明しているところもある。

 駅前の商店街では、ポスターや街頭放送で 「マイバッグを使いましょう」 と宣伝している。にもかかわらず、その商店街の大半の店では、ビニール袋が “デフォルト” (コンピューター用語で “規定値” のこと) である。そのギャップに、私などは 「ポスターや放送は、『やってますよ』ということを見せるだけで、本当はやる気がないんだろう」 と思ってしまう。商店街として買い物バッグを推奨することが、逆に私には商店街のイメージを悪くしている。

 「ビニール袋をもらうことが当たり前」 と思っている人が大半な現在、手さげ袋を持っている人に 「ビニール袋はご入用ですか?」 と聞いたら、「当たり前だろ! いちいち聞くな!!」 などと怒鳴り散らす人が大量発生しそうではある。

 しかし、ビニール袋の無料&デフォルト サービスはそろそろやめるべきである。ビニール袋を要求する人には、それなりの代価を支払ってもらう時代になっても、そろそろいいころである。

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2007/02/15

成長している実感の大切さ

辞めた人を想うより、いま辞めようとしている人へ
(ITmedia News, 2007年2月1日)

 この記事の主題は 「成長している実感があるか」 だ。私も会社勤めをしているときには、よく悩んだ問題である。

 日々の業務、それも定型業務に追われていると、慣れや惰性で仕事をしてしまい、“成長している” 実感がなくなってくる。「成長したい」 という気持ちすら失うときもある。それではいけないと思い、仕事の合間を見つけては、学会の発表を聞きにいったりして、新しい知識や分野を見つけにいったりもした。一日中が学び=成長の時間であった大学生時代からずいぶんと経つと、学会での発表がみょうに新鮮だったりする。

 努力はするものの、歳を重ねて若手の面倒を見る時間も必要になってくると、いっそう最先端の技術、知識、情報に追いつけなくなっていく。感覚としては、ずっと放電している感じである。まだ学生だったころや若手だったころに、いっぱいいっぱい充電したことを、中堅と呼ばれるようになってから、放電のしっぱなしであった。

 充電している感じと言うのが、ここで言う “成長している実感” なのではないかと思う。そして、充電した分=成長した分 を使って、新たな分野への仕事に向かう気持ちになるのだと思う。新たな分野に進出できれば、新たな発見があり、新たな感動があり、それがさらなる充電=成長となる、という良い循環ができるのではないか。

 私は会社という組織を離れて、ここしばらくは家庭という場で仕事をしている。そして、やってみるまでは気がつかなかったのだが、家庭での仕事=家事には、自分を成長を実感できることがいっぱいあったのである。まぁ、それまでの人生が、身の回りの家事をほとんど親任せ、妻任せで来たことの証明でもあるわけだが。(^^;)

 買い物で物の相場が身について、家計費が減って行くこと。買ってきた魚を三枚におろすことが上手にできるようになったこと。それまで買って食べていたポテトチップスが、自分で簡単に作れることがわかったこと。

 すべてが自分の成長を実感させてくれた。だから、家事は私にとってはつらいものではなく、楽しいものとなっている。少なくとも今のところは。

 今後、子供が成長して親の手を離れたときには、あらためて今まで自分がやっととのない仕事を始めようかと思っている。そしてそのときは、新たな成長が実感できることを楽しみにしている。

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2007/02/14

プライドとは、質の悪いシールのようなものである

「プライドとは、質の悪いシールのようなものである」

【意味】 シールは結構気軽にどこにでもぺたぺた張ってしまう。しかし、質の悪いシールは、一度張ってしまったらなかなかはがせない。無理にはがそうとすると、途中で破れて汚くなってしまう。後には不恰好なシールのかすが残り、けっして元のきれいな状態には戻らない。つまり、プライドとはその程度のものである。

 この言葉は、私が作ったモノではない。いつどこで読んだのか、誰が書いたものかは忘れてしまったが、他人が作った言葉である。でも、この言葉だけは忘れることがなかった。それは私にとってこの言葉が、真実をついていると思えたからだ。

 まだ私がガキだったころは、私にとって “プライドはかっこいい、なくてはならないモノ” だった。だから、よく 「プライドをかけて」 は意固地になっていたものだ。今から考えれば、単に意地を張っていただけだったように思う。

 それがこの言葉に出会ってからは、自分が考える “プライド” を張ることが恥ずかしくなってきた。そして、“なるべく” (^^;) プライドを張らないように気をつけるようになった。下手なプライドを張ると、かえって自分が損をしたり、傷ついたりすることに気がついたからかもしれない。

 もし今でもプライドを簡単に張ってしまう人間であれば、おそらく主夫はやっていなかったと思う。「女性は産む機械」などと考える世代の人間から見れば、主夫はプライドのない人間のやることに見えるかもしれない。男は外で稼いでこそ一人前などと、私から見れば前近代的な思考に対して、なんらプライドを張る必要を感じなかったことは、私にとっては幸運であった。

 もちろん、「プライドは生きることや働くためには大切なものである」 という考えもある。それも正しいと思う。プライドをかけて仕事をして、生き抜いていることを、私は決して否定するものではない。

 ただ、なんにでもプライドと言い張って、引くに引けない状況を自分自身で作ってしまい、結局は自滅して行く。私はこの言葉と出会って、そんな破滅的な状況に自分を追い込まなくなったと思っている。最初に勤めた日本有数の会社を辞めようと思ったとき。前の会社を辞めて、しばらく主夫をしようと思ったとき。もしそれらのときに、私が “質の悪いシール” を貼り付けていたら、今よりももっと悪い状況に自分が置かれていたのではないかと思えて仕方がない。

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2007/02/13

人々に利用されて真価を発揮する、で思い出したこと

“著作物は人々に利用されて真価を発揮する”
大阪工業大学 知的財産学部 専任講師 関堂幸輔

 この一文は、自分の過去の仕事と反省を思い起こさせた。私は著作物を書いたり作ったりしたことはない。それでも、“人々に利用されて真価を発揮する”、この一言の大切さを実感したことが、私の仕事のやり方を大きく変えたことがあった。

 私も10年前は、Windows 用パッケージ ソフトウェアの仕様を書いていた。仕様を書く仕事に就いた当初は、「私が仕様をすべて決めるんだ。決めなければいけないんだ」 と信じていた。プログラマーやテスターの意見も聞かずに、自分の意見を押し通した。「担当部分の機能や使われ方については、自分が一番熟知している」、と信じ切っていたからだ。

 しかし、ユーザーは私が期待したとおりには使ってくれなかった。すると私は、私の意図したとおりに機能を使ってくれないユーザーに責任を転嫁していった。「こんなに有用で使いやすい機能を使えないユーザーに問題がある」 と。

 そんなことが何度か繰り返された。そして3年ほどたってから、私はようやく気がついた。自分の考え方、やり方こそ間違っていたのだと。「ユーザーのため」、「利用者のため」 と口ではいいながら、自分もいつの間にか “自分にとっての理想を実現すること” が目的になっていたのである。

 そして、やり方を改めた。

 自分以外の人たち、主にプログラマーやテスターからの疑問や質問には、必ず相手が理解、納得できる答えを用意した。理解、納得ができる答えが準備できないときは、その仕様に何らかの本質的な欠陥があるものとした。そして、その仕様はいったん取り下げて、受けた疑問、質問に明確な答えが出せる仕様に作り変えた。

 社内ユーザーからの声も重要な情報であった。同じ製品チームの人たちは、中身を良く知っているため、ついつい、簡単な疑問点を見過ごしてしまう。チーム外の社内ユーザーは、チームの事情などお構いなしに疑問、質問をぶつけてくる。それは、一般ユーザーにかなり近いものと考えた。そして、社内ユーザーからの疑問、質問についても明確な回答を準備することを自分に課した。回答が出せないときは、仕様を変更することもあった。仕様の変更が間に合わずに、泣く泣く仕様を切ったこともあった。

 その後、私は別のチームへ移動した。

 私が他のチームに移ったあとは、当然、別の担当者が私の担当部分を引き継いだ。そして当然、私の仕様を変更していく。

 仕様および仕様書は、私にとっては著作物である。もちろん、文学作品でなければ、エンターテイメントでもない。しかし、私にとっては立派な作品である。その作品が、私の手の届かないところで変更されていく。

 それでも私は、捨て去られてなかったことにされるよりは、ずっといいと思った。より高いレベルに改良されることもあれば、かえって退化してしまったような改悪もあった。改悪されて悔しい思いをしたこともあった。でも、私の作品から作られた製品、私の作品を改良した作品とその製品が、多くのユーザーに使われて、役に立っているのであれば、私は十分に満足だ。

 自分の作品=仕様にだけこだわっていたときであれば、おそらくそのようには思わなかっただろう。「なぜ勝手に自分の最高の作品(仕様)を勝手にいじったのか」 とそればかりをつぶやいていたのではなかろうか。

□ □ □ □ □ □ □ □ □

 そんなことがあったせいか、何回か前に紹介した 松本零士氏 の発言内容が、私にはどうしても受け入れられない。

 もちろん、仕様の採用・不採用にかかわらず安定な収入を得られた私と、いくら作品をがんばって書いても売れなければまったく収入がない著作者では、ものの見かた、考え方は大きく違ってきて当然である。

 それでも、自分の書いた作品の一切の模倣、リメークを認めないという発言をする著作者には、なにかさびしさを感じる。もしかしたら、自分が書いた作品と同じ設定や同じアイデアを使って、自分よりも優れた作品を作られるのが怖いだけなんじゃないか?とさえ“かんぐって”しまう。

 模倣、リメークされれば、確かに質の高いもの、低いものいろいろ作られると思う。しかし、オリジナルが本当に質の高いものであれば、質の低い模倣品が作られたとしても、後の世に残っていくのは、質の高いオリジナルだと思う。“ロミオとジュリエット” が後世まで語り継がれて、元になったネタ本が後世には広く世に知れ渡らなかったように。

 それとも、著作権の強化を訴える人たちは、結局自分たちが生きている間に高額な経済的な収入がほしいだけなのだろうか。そうであれば、

【知はうごく】「模倣が生む才能」著作権攻防(6)-3
(SankeiWeb, 2007年2月1日)

の 「ドラえもん 最終話」 に対する著作権者の仕打ちも納得できる。

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2007/02/10

著作物は人々に利用されて真価を発揮するもの

いつ奈落に落ちるか──著作権“バッシング”に松本零士の思い
(ITmedia News, 2007年2月1日)
「著作者と消費者は本来、対立関係にない。著作者は消費者に愛され、期待され、よい作品を提供する存在になるべきだ」 (日本芸能実演家団体協議会 椎名和夫常任理事)

著作権法制の未来
大阪工業大学 知的財産学部 専任講師 関堂幸輔
「著作物は権利の客体であると同時に文化的所産でもあり,人々に利用されることによってこそその真価も発揮するものだといえます。そこには「権利の保護」と「利用の保護」というジレンマが生じざるを得ません。すなわち,著作者・著作権者等の権利を保護することはむろん重要ですが,それを重要視するあまり他人の著作物の利用が困難になってしまうようでは,著作者・著作権者等の利益も保護されなくなり,ひいては社会全体の文化の衰退を招きかねません。」

 私はこの 「人々に利用されることによってこそその真価も発揮するもの」 で、目からうろこが落ちた気がする。これを読むまでは、そういう視点で著作物を見たことがなかった。

 さらに重要なことは、“人々による利用” が、単なる読書や鑑賞にとどまらず、基本的な部分を模倣した作品の作り変え、つまり “リメーク” も含まれると言う点である。

リメーク・映画化のハードルが高い日本
(ITmedia News, 2007年2月2日)
「著作権が切れた作品は、誰でも自由に利活用でき、作り替えることもできる。英舞台劇「ロミオとジュリエット」がシェークスピアの死後300年以上を経て米ミュージカル「ウエスト・サイド物語」として生まれ変わったのがいい事例だ。しかし、「ロミオとジュリエット」には原典となったブルックの長編詩があり、さらにその種本があるという。ひ孫、孫作品に当たるウエスト・サイドは変形、脚色がさらに進んでいることになる。もし、ブルックの子孫に著作権が継承されていたら、その後の“文化”は花開くことができただろうか?」(ITmedia)

 「ロミオとジュリエット」 から 「ウエスト・サイド物語」 というのも “人々に利用される” 部分に入るわけである。

 では、300年と50年の違いは何なのだろう? 50年では著者や身近な人が生きていて、300年後なら誰も生きていないから? 300年後でも直系の子孫は生き残っている場合が多いはず。そういう人たちは配慮に値しないのか? 何代先なら配慮しなくていいのか? 私が50年や70年という数字に納得が行かない理由である。

 何らかの作品に “インスパイア (^^;)” されて、類似の作品がつくられてもいいではないか。類似作品の質が高くて、オリジナル作品が売れなくなれば、所詮その程度の作品だったということである。逆に、類似作品が注目を浴びたために、あらためてオリジナル作品が売れるということもあるだろう。あるいは、類似作品が “のまねこ” のように、利用者の猛反発にあって消え去るかもしれない。

 いずれにしろ、保護しすぎて誰も、読むことも、見ることも、使うこともできなくなってしまっては、あまりにも悲しすぎる。それとも著作者は、「下手に模倣、改ざんされるかもしれないのであれば、死蔵されるほうがまし」 とでも考えているのであろうか。

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2007/02/09

長期にわたる報酬が約束されなければ質の高い作品は作れないのか?

いつ奈落に落ちるか──著作権“バッシング”に松本零士の思い
(ITmedia News, 2007年2月1日)
「著作権で保護されることが、家族や子孫がある自分自身の精神的な安らぎにもなり、創作意欲にもつながる。」(松本零士)

著作権保護期間は延長すべきか 賛否めぐり議論白熱
(ITmedia News, 2006年12月12日)
「ヨーロッパで死後70年保護されると聞くと『同じような物を作っているのになぜ日本だけ50年なんだ』と思う。『日本も70年にして下さい』と訴えても『お前の作品はもうかっていないから50年でいいんだ』と言われると、わたしも意欲をなくす」(三田誠広)

 私が納得できない部分である。

 松本零士氏や三田誠広氏が、自らの死後も長期にわたって自分の家族や子孫に経済的な恩恵があることが、自らの創作意欲につながっていることはわかった。しかし、著作者すべてが、著作権保護の20年延長で創作意欲が高まるとは、私には思えない。

 歴史的に見て、著作の著作権による保護は16世紀以降のことである。では、16世紀以前には優れた著作はなかったかといえば、決してそんなことはない。16世紀以前の古典と呼ばれる優れた文学や芸術は数多く現存している。Wikipedia によれば、音楽の著作権による保護は、19世紀以降とある。モーツァルトも盛んに盗作を行っていたとのことである。

 モーツァルトの作曲は、ほとんどが受注を受けての制作だったらしい。ベートーベンにいたっては、パトロンさえもいなかったそうである。著作権で自らの作曲が保護されず、金銭的な援助をしてくれるパトロンさえもいなかった。にもかかわらず、あれだけ多くの後世に残る名曲を作曲している。

 もちろん、技術的な状況は今とまったく違う。当時は録音装置などなかったし、インターネットのように簡単に演奏を配信する技術もなかった。単純に現在と比較をするのも、きわめて乱暴であることも承知しているつもりだ。しかし現在においても、著作権による収入や自分の死後50年間の保護など考えずに、自らの主張がしたいという理由だけで、創作活動を行っている人たちも大勢いるはずである。そういう人たちに対しては、後者の ITmedia News で福井建策氏がいっているように、

「文化庁に配分される芸術文化振興のための予算は、道路整備に使われている予算の0.5%以下。文化の振興を言うならば、保護期間の延長よりももっと声をあげるべきことがあるはず」(福井建策)

“生前の保護や支援こそ考えるべき、という意見” に私は賛成である。

 繰り返しになるが、著作権保護の延長によって創作意欲が高まる人たちも確かにいるだろう。しかし、保護を延長さえすれば、より多くの質の高い作品が作られるとは、どうしても思えない。20年の延長は、すでに高い評価が固まっている人が、さらなる利益の確定に向けて主張しているようにしか、私にはどうしても思えないのである。

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2007/02/08

とある会社でのソフトウェア使用許諾違反の逸話

 著作権問題について調べたり、書いたりしていたら、思い出した話があった。ということで、今回は著作権問題の余談である。

 私が大学生のころから、すでにパソコンのソフトウェアの不正コピーが横行していた。中には所有している不正コピーの種類の多さを自慢する風潮さえあった。論文の著作権を重視する大学でさえそうだったのだ。一般企業の認識はさらに低いものだった。

 そんな状況で、私が聞いた逸話である。今は IBM ブランドになっている “ロータス” がまだ独立したソフトウェア会社であったころの話である。

 ロータスの日本法人の社長が、主力製品である “ロータス 1-2-3” を大量に購入してくれているある大手メーカーに挨拶に行ったときの話である。その大手メーカーの社長がお茶を持ってきた秘書を指して 「彼女は、毎朝、すべてのパソコンにフロッピーディスクを挿して、ロータス1-2-3を起動する係なんですよ。」 と紹介したそうである。メーカーの社長はロータス1-2-3をいかに多く使っているかをアピールしたかったようである。

 しかし、1枚のフロッピーをつかって複数のパソコン上の1-2-3を起動させる。つまり、オリジナルのディスクは1セットしかなく、それを秘書室にある複数のパソコンで使っていた、ということである。明らかに使用許諾違反である。

 しかも、取り締まるべきソフトメーカーの社長に、堂々とそのことを自慢してしまう。そんな時代であった。

 その後、その大手メーカーが1-2-3を使用しているパソコンの台数分だけパッケージを購入したかどうかまでは、残念ながら記憶していない。

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2007/02/07

不法コピーに罪の意識が薄いということに、著作権による高額所得は影響していないか

“違法着うた”サイト、中学生の7割が利用経験あり

罪悪感を感じているユーザーの割合は年齢が上がるほど減っており、12~15歳で28.4%いたのが、16~19歳で27.7%、20~24歳で19.4%、25~29歳で15.5%、30~34歳で11.7%、35~39歳で8.7%だった。

 ここでは、なぜ罪悪感を感じているユーザーが減っていくのかの説明はされていない。

 “違法コピーに対する罪悪感が薄い” 理由のひとつに “一部の著作権者の高額所得” があるのではないか、というのが私の考えである。罪悪感を感じない理由としてよく挙げられるのは、「簡単にできる」、「皆がやっている」、「やっていても見つからない」 などの理由である。しかし、私はそれらに加えて、著作権者への “ねたみ” や “甘え” があるのではないかと考えている。

 つまり、「この曲を歌っている歌手は、あれだけ稼いでいるんだから、私一人がお金を払わなくたっていいじゃん」 とか、「このマンガの作者は毎年番付長者の上位に入るくらいに稼いでやがる。そんなやつに貧乏な俺が金を払う必要ないじゃん」 といった気持ちである。

いつ奈落に落ちるか──著作権“バッシング”に松本零士の思い

 この記事では、著作物の制作者がいかに命を削って作品作っているかを述べている。しかし、プライドをかけてモノを作っているのは、著作者だけではない。町工場で一つ何銭というネジを作っている人たちだってプライドをかけて作っている人たちはいる。逆に、儲けの手段として恥も外聞もなく金儲けに走る著作者だっている(と思う)。

 十分に稼いだ著作者たちは、稼げない著作者たちを助けようとしないのか? 企業家には、十二分に設けたお金を若い世代の企業家育成に当てたり、恵まれない人たちに寄付をしたりする人たちがいる。同じよう話は、著作者たちにはないのか?

 著作者が仲間の著作者を保護するために活動するのは、当たり前といえば当たり前である。労働組合が労働者を保護するために賃上げを要求したり、労働環境の改善を要求したりするのと同じである。だからこそ、逆に著作者仲間以外から激しく反発を受けるのだと思う。「著作者を、蕎麦屋と一緒にするな」 といった発言をすればなおさらである。付け上がっているとしか思われない。

 誰かと交渉をするときに、交渉相手をさげすむ発言をして、交渉が順調に進むとは思えない。例えば、大会社が下請け会社に納入部品の値下げ要求をするときに、大会社が下請け会社に 「どうせお前らは俺らよりも格下なんだから」 みたいなことをいえば、おそらく交渉は決裂するだろう。交渉ごととはそういうものである。

 話を元に戻す。

 著作者は、著作権保護期間の延長を訴える前にやるべきことがあると思う。ジャスラックに代表されるような、著作権料を搾取している団体を適正な組織にすることや、必要以上に上前をはねている出版社と交渉することである。

 利用者が支払ったお金が適正に著作者(著作権者ではない)にわたることが確認されて、かつそれでも著作者が著作物を制作するのに70年の保護期間が必要なのであれば、私は保護期間延長に賛成である。

 飢えている一般市民を救うためという目的で送られた援助物資が、結局その国の特権階級や軍人が搾取して、肝心の一般市民の救済に使われない、といった国際協力の話をよく聞く。現状の日本のシステムで著作権保護期間を延長すると、それによって発生した資産が、結局、搾取される援助物資のようになるような気がしてしょうがない。だから私は、著作権保護期間延長に反対なのである。

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2007/02/06

日本音楽著作権協会(ジャスラック)は必要なのか

 私は、下の記事を読んで初めて著作権使用料のかなりの部分が搾取されていることを知った。

「補償金もDRMも必要ない」――音楽家 平沢進氏の提言

特に憤りを感じたのは次の部分である。

平沢氏: 例えばメジャーなレコード会社で活動してたとしますよね。レコーディングが終わるとある日突然、出版会社から契約書が届くんですよ。で、契約してくれと。契約条項にいろいろ書いてあるんですけど、契約書が送られて来た時点で、JASRACにもう勝手に登録されているんです。残念ながらアーティストは、著作権に関してまったく疎い。同時に私自身も疎かったがために、そういうものだと思いこんでいたわけですね。それによって、出版会社に権利が永久譲渡されている曲というのがあったりするんですよ。で、JASRACで集金されたお金は、この出版会社を通るだけで50%引かれて、アーティストへ戻るという構造があるんですね。出版会社は“プロモーションに努める”と言いますが、成果は保障せず、どんなプロモーションをするのか何度説明を求めても、回答しないことがほとんどです。大きなセールスが期待できるアーティストについては積極的に動きますが。

 これを読んで、思わず “共同出版” という美名で自費出版をしたい人から詐欺まがいに利益を徴収する出版社の話を思い出した。他人が法律に疎いことに付け込んで、多額の利益を上げる手法である。そういえば以前に、認知症の人たちの家に意味のない補強工事をして、多額のお金を巻き上げていた事件もあったな~。

 と、話がそれてしまった。そして、ジャスラックについてあちこちのサイトを調べた結果、行きついたのが以下の記事である。

「週刊ダイヤモンド」 2005年9月17日特大号
【企業レポート】 日本音楽著作権協会(ジャスラック)
使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にするあきれた実態

JPEG: 1ページ目2ページ目 (参照元削除によるリンク切れ)
PDF: (内容は上と同じ) (参照元削除によるリンク切れ)

 この記事が100%正しいという保障はない。Wikipedia によると、ジャスラックはダイヤモンド社に対して名誉毀損訴訟を起こした、ということである。とはいえ、まったく根も葉もない作り話とも思えない。これだけの記事を書かれるだけのことはしていると、私は信じている。

 そして、著作権の保護期間を70年に延長するということは、この組織、そしてそこに群がっている人たちを、これまで以上に太らせる “だけ” という気がしてならない。そういえば、どこかのスポーツ団体の役員が不明朗なお金を使い方をして逮捕されるという事件もあったな~。

 権限、権力、そして資金が集まれば、人は往々にしてその資金が自分のもののように錯覚してしまう。それはこれまでの歴史でも、現代社会でも証明している。だから、そういう錯覚が起こらないようにする “システム”、集まった資金を本来の目的以外に地は使えないようにする “システム” を作ることが大切なのである。

 そういった基本的なシステムが存在しないまま、これ以上怪しい団体に、これまで以上にお金が集まるような “著作権保護期間の20年延長” には、断固反対である。

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2007/02/05

漫画家は蕎麦屋より偉いのか

 産経新聞 Web 上で “知的財産” の特集をしている。著作権の期間を50年から70年へ延ばそうという話もあり、私も興味深く見ている。

 “知的財産” の特集は、ITMedida サイト上でも行われている。今日のタイトルを見て、私が何のことを話そうとしているのか気がついた方も多いと思う。ITMedia で紹介されたシンポジウムにおける 松本零士氏 の発言についてである。

 司会の 中村伊知哉氏 の

「自分の死後、家族の生活を守りたいと思うのは、作家もそば屋やうどん屋の主人も同じ。作家の遺族は著作権法で保護されるが、そば屋・うどん屋の遺族を守ってくれる『そば屋法』や『うどん屋法』はない」

という発言に対して、松本零士氏 が、

「そばやうどんと一緒にしてもらっては困る。作家の作品は残るが、そばやうどんは私にも作れる」

と言い返した部分が、私にはどうしても無視することができなかった。このシンポジウムの記事にトラックバックをしているブログを見ても、この点を批判しているブログが多かった。

 この発言部分がこのシンポジウムの本筋ではないし、著作権の保護期間の延長議論の本質でもない。そのことは私もよくわかっているつもりである。

 しかし、あからさまに “作家” が作家以外の職業より優れている、という趣旨の発言をされては、発言をした人が推進している案(この場合は70年に延長)を、私は支持できない。70年への延長が単に 「作家の俺は、他の職業の者より優れているのだから、もっと経済的な恩恵を受けるべきである」 としか聞こえないからである。

 どうも、有名人は自分を特別視する傾向にあるのが、私には気になる。以前、島田紳助氏と松本人志氏がやっていた深夜番組のことである。両者が 「うちら有名人は、免許更新の時の講習は、個別に個室でやるべきだ」 という趣旨の会話をしていた。この会話だけというわけではなく、だんだんとこの二人の思い上がった会話が耳につくようになっいった。そして、二人のうち一方でも出ている番組は見なくなっていった。

 話の内容が “著作権” の話からずいぶんそれてしまった。しかし、まず、気になったのが、著作権の期間を20年延ばそうとしている人たちが、先の思い上がっているように聞こえる発言をする人や、著作権で不条理に稼いでいる団体の人たちかと思うと、私は単純に “延長反対” と叫ぶしかないと思っている。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

追記: 松本零士氏のこの発言に、何でここまで過敏に反応してしまったのか、自分なりに考えてみた。

 思い当たるのは、私がテスターだったことである。私がテスターだったころに、一部のプログラマー出身のマネージャからよく 「テスターなんて誰でもできる。」 といわれたものである。

 そりゃ~、開発中の製品をつかって何らかの作業をしていれば、小さいバグの一つや二つを見つけることもあるだろう。それをもってして 「テスターなんて誰でもできる。」 というのであれば、「そばやうどんは私にも作れる。」 という発言と同じである。

 漫画家が趣味で作った蕎麦が果たして商売になるのか?  同じように、たまたまバグを見つけるのではなく、計画的にかつ効率的にバグを見つける、もしくはバグがないことを見極めることが、本当に 「だれでもできる」 のか?

 “自分が他人よりも優れた仕事をしている” と思いたいがために、他の職業を自分のやっている仕事より劣っているように思わせようとしているとしか、私には思えない。

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2007/02/03

【お勧めコラム】 なぜ実現しないネット放送

“なぜ実現しないネット放送” by 高瀬徹朗

“需要無視の“内情”を露呈した「YouTube 対 テレビ局」” by 高瀬徹朗

 さすがプロである。現状のテレビ放送業界の実情や問題点をうまく説明している。具体的な数字も把握している。また、内容が私が思っていた放送業界の実情と極端に大きくは食い違っていなかったことに 「ほっと」 している。

 内容の本題が “品質” である点も興味深い。

 「ハイビジョンで美しい映像を」というサービス論に限らず、テレビ放送業界はとかく、品質にこだわる。一般にいう「放送事故」(10秒以上の無音状態ほか)はもとより、ちょっとした画像と音声の乱れでも嫌う傾向にある。こうした放送上のミスが発生した場合、番組スポンサーに対して賠償金が発生すると言われている(詳細な金額については明らかにされていない)。

 通信経由でテレビ番組を送信するネット放送の場合、放送局はこの「品質論」を大きなネックとして挙げることがある。YouTubeなどの動画配信サービスなどを利用する人たちには理解しやすいと思うが、現状、安定感や画質・音質においてテレビとは比較にならないほど品質は低い。

 この話を読んで、すぐに “IP電話” が普及する以前の議論を思い出した。NTT 曰く、「IP 電話は、通話の “品質” が保障できない。」    実際、開始当初の IP電話サービスは、音質が悪かったり、会話が途切れ途切れになったという話しも聞いた。

 それから2年。世の中は明らかに IP電話 が主流になりつつある。既存の電話回線は、ISDN も含めて、NTT のお荷物になっている。我が家でも、電話回線二回線分が休眠している。14万4千円分が放置されているわけである。10年使ったとしても、1年 1万4千円。けっこうな額である。(ちょっとぼやきモード)

 高瀬徹朗氏のコラムを読むと、映像放送はプル型の通信配信に収束していく、ように読める。そして、もしそうなれば、テレビ局や広告代理店のみならず、家電業界やレンタルビデオ屋も含めて大きな変革にさらされることになるだろう。

 サーバー上の映像が長期にわたって保障されるという前提であれば、据え置き型家庭用ビデオレコーダーは、ほとんどの視聴者にとってはいらなくなる。レンタルビデオも借りてくる必要がなくなる。

 「50年続いてきた今のテレビ放送ビジネスが、そう簡単には変わらない」 という考えもあろう。しかし、わずか10年で、私はここまでインターネットが一般化するとは思いもよらなかった。10年前に、「10年後には、テレビや新聞の広告で、ホームページのアドレスを伝えるのが当たり前になる」 と予想できた人が何人いただろうか?

 そう考えれば、10年後に何が起こっていても、今からそれを想像するのはけっして容易ではない。

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2007/02/02

客より仕事を優先する店員

 仕事(主夫(^^;))柄、スーパーに買い物に行く機会が多い。また、買う用事はないが、電気屋にぶらっと立ち寄ることもよくある。そんなときに気になるのが、荷物を運んでいたり、どっかに急いでいるときの店員の態度である。

 狭い通路で正面から来る店員と鉢合わせになったときに、店員のほうが当然の顔をして突進をしてくる。私はぶつかって怪我でもしたらつまらないと思い、かならずよけるようにしている。

 こんな場面に出くわすと、いつも私が思うのは、

「あ~、この店も、お客よりも仕事の効率を優先させるお店なんだな~」

ということである。

 こっちのブログ (“人の行く手を妨げない心配り・・・”) を読んで思い出した話である。私も、お店で同じ思いをしているな、と思い出してこの記事を書いている。

 おそらく店員は、店長や管理職から 「早く仕事をしろ!」 とか 「もたもたしてるんじゃね~!」 とだけ、いわれてるんだろうな~、と私は思っている。

 これが、ほんとうにお客を大切にしている店であれば、

「仕事は迅速に行え。しかし、あくまでもお客さんの行動を優先させろ。」

と指導すると思う。そういう店では、店員はお客を先に通してから自分が通る。現にそういう店も何件かある。

“物を売るのが商売で、客に品物を適正な値段で売ればいい”

と考えるのか、

“物を買ってもらうのが商売であるが、お客に気持ちよく買い物をしてもらうことも大切である”

と考えるのか、の差じゃないかと私は考える。

 “ディズニーリゾート” は、明らかに後者である。物を売ったり、乗り物に乗せたり、パレードをみせたりして商売をしている。しかし一番大切なことは、その場所にいること自体を楽しんでもらうために最大限の努力をしていることである。だからこそ、あれだけの数の人が、安くないお金を払ってでも “行こう” と思っているのだ、と私は思う。ディズニーリゾート以外のテーマパークが、軒並み苦戦しているというニュースを聞くたびに、そのあたりの違いを考える。(とはいえ、ディズニーには、別のいろいろな問題もあるのだが、それはまた別の機会にするつもり。)

 ソフトウェア テスティングの仕事をしているときも、“テストをすることだけが自分の仕事” と考えるのか、“ユーザーに有効なソリューション(問題解決法)を提供するための自分の担当がテスト” と考えるかで、仕事の品質がぜんぜん違ってくる。もちろん、後者のほうが断然高い品質の仕事ができる。しかしながら、私が見てきた多くのテスターは、前者の考えから抜け出すことはなかった・・・。

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2007/02/01

CPU と オーバークロック と 劣化 と

 900MHz にクロップアップしていた Celeron 600MHz がとうとう 900MHz で動作しなくなった。

 カミさんの使っているパソコンが起動しなくなった。以前から、頻繁にシステムがハングアップしていたが、再起動すれば問題なく動作していたのでほうっておいた。またメモリの一部がいかれたのか?ぐらいに思っていた。そうしたら、先日まったく起動しなくなってしまった。BIOS画面すら表示しなかった。

 まず、ハードディスクを疑ったのだが、音を聞いてみるとどうやら正常に動作しているようだ。

 そこで次に疑ったのが CPU である。何しろ、ベースクロック 66MHz の 600MHz のセレロンを、無理やりベースクロック 100MHz の 900MHz で動かしていたのである。内部の配線やコンデンサーは、さぞ劣化が進んでいると思われた。

 そう入っても、とりあえず動くようにしなければいけない。まず最初にやったのが、悪あがきとは思いつつも電圧の昇圧である。定格1.5V のところを、すでに、1.9V かけている。それを、1.95V まであげてみた。一度 OS が起動したが、二度目以降は起動しなかった。私もさすがにそれ以上に電圧を上げる勇気はなかった。

 そこで、元の 66MHz、1.5V に戻すことにした。規定値の設定で、今は何の問題もなくパソコンが使えている。動作が少し遅くなったのが、問題といえば、問題だが。

 近いうちにカミさん用に新しいパソコンを買う予定なので、これ以上この古いパソコンへの投資はするつもりはない。当面は、だましだまし使うことになる。

 それにしても、この CPU はがんばってくれた。この CPU に入れ替えたのは、おそらく 2000年~2001年ぐらいである。すると、5~6年、オーバークロックでがんばってくれていたことになる。一日平均で五時間使ったとして、一年で約1800時間。5~6年で、約一万時間。定格の状態で使っていれば、一万時間ぐらいで劣化することはないだろが、何しろ1.5倍の働きをずっとしていたのである。「よくやった。感動した。」 とほめてあげたい。入れ替えた時は、「ま~、2~3年もてば十分だな。そのあとまた上のクラスに入れ替えればいいや。」 程度にしか考えていなかったのだから、その倍以上も動き続けたわけである。

 いまさら上位の CPU に入れ替えるつもりはないが、CPU っていうのは、“私が思っていた” よりも耐久性があるんだな、ということがわかった一件であった。

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