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2007/02/13

人々に利用されて真価を発揮する、で思い出したこと

“著作物は人々に利用されて真価を発揮する”
大阪工業大学 知的財産学部 専任講師 関堂幸輔

 この一文は、自分の過去の仕事と反省を思い起こさせた。私は著作物を書いたり作ったりしたことはない。それでも、“人々に利用されて真価を発揮する”、この一言の大切さを実感したことが、私の仕事のやり方を大きく変えたことがあった。

 私も10年前は、Windows 用パッケージ ソフトウェアの仕様を書いていた。仕様を書く仕事に就いた当初は、「私が仕様をすべて決めるんだ。決めなければいけないんだ」 と信じていた。プログラマーやテスターの意見も聞かずに、自分の意見を押し通した。「担当部分の機能や使われ方については、自分が一番熟知している」、と信じ切っていたからだ。

 しかし、ユーザーは私が期待したとおりには使ってくれなかった。すると私は、私の意図したとおりに機能を使ってくれないユーザーに責任を転嫁していった。「こんなに有用で使いやすい機能を使えないユーザーに問題がある」 と。

 そんなことが何度か繰り返された。そして3年ほどたってから、私はようやく気がついた。自分の考え方、やり方こそ間違っていたのだと。「ユーザーのため」、「利用者のため」 と口ではいいながら、自分もいつの間にか “自分にとっての理想を実現すること” が目的になっていたのである。

 そして、やり方を改めた。

 自分以外の人たち、主にプログラマーやテスターからの疑問や質問には、必ず相手が理解、納得できる答えを用意した。理解、納得ができる答えが準備できないときは、その仕様に何らかの本質的な欠陥があるものとした。そして、その仕様はいったん取り下げて、受けた疑問、質問に明確な答えが出せる仕様に作り変えた。

 社内ユーザーからの声も重要な情報であった。同じ製品チームの人たちは、中身を良く知っているため、ついつい、簡単な疑問点を見過ごしてしまう。チーム外の社内ユーザーは、チームの事情などお構いなしに疑問、質問をぶつけてくる。それは、一般ユーザーにかなり近いものと考えた。そして、社内ユーザーからの疑問、質問についても明確な回答を準備することを自分に課した。回答が出せないときは、仕様を変更することもあった。仕様の変更が間に合わずに、泣く泣く仕様を切ったこともあった。

 その後、私は別のチームへ移動した。

 私が他のチームに移ったあとは、当然、別の担当者が私の担当部分を引き継いだ。そして当然、私の仕様を変更していく。

 仕様および仕様書は、私にとっては著作物である。もちろん、文学作品でなければ、エンターテイメントでもない。しかし、私にとっては立派な作品である。その作品が、私の手の届かないところで変更されていく。

 それでも私は、捨て去られてなかったことにされるよりは、ずっといいと思った。より高いレベルに改良されることもあれば、かえって退化してしまったような改悪もあった。改悪されて悔しい思いをしたこともあった。でも、私の作品から作られた製品、私の作品を改良した作品とその製品が、多くのユーザーに使われて、役に立っているのであれば、私は十分に満足だ。

 自分の作品=仕様にだけこだわっていたときであれば、おそらくそのようには思わなかっただろう。「なぜ勝手に自分の最高の作品(仕様)を勝手にいじったのか」 とそればかりをつぶやいていたのではなかろうか。

□ □ □ □ □ □ □ □ □

 そんなことがあったせいか、何回か前に紹介した 松本零士氏 の発言内容が、私にはどうしても受け入れられない。

 もちろん、仕様の採用・不採用にかかわらず安定な収入を得られた私と、いくら作品をがんばって書いても売れなければまったく収入がない著作者では、ものの見かた、考え方は大きく違ってきて当然である。

 それでも、自分の書いた作品の一切の模倣、リメークを認めないという発言をする著作者には、なにかさびしさを感じる。もしかしたら、自分が書いた作品と同じ設定や同じアイデアを使って、自分よりも優れた作品を作られるのが怖いだけなんじゃないか?とさえ“かんぐって”しまう。

 模倣、リメークされれば、確かに質の高いもの、低いものいろいろ作られると思う。しかし、オリジナルが本当に質の高いものであれば、質の低い模倣品が作られたとしても、後の世に残っていくのは、質の高いオリジナルだと思う。“ロミオとジュリエット” が後世まで語り継がれて、元になったネタ本が後世には広く世に知れ渡らなかったように。

 それとも、著作権の強化を訴える人たちは、結局自分たちが生きている間に高額な経済的な収入がほしいだけなのだろうか。そうであれば、

【知はうごく】「模倣が生む才能」著作権攻防(6)-3
(SankeiWeb, 2007年2月1日)

の 「ドラえもん 最終話」 に対する著作権者の仕打ちも納得できる。

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