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2007年12月の23件の記事

2007/12/31

今年最後のご挨拶

 2007年最後の書き込み。

 とりあえず、今年一年、ブログを続けることができてよかった、と思っている。時々、手を抜いたりしたときもあった。が、長期にわたり書き込みを中断したことがなかったことは、「自分で自分をほめてあげたい」 (^_^;)。

 今年のアクセスログを振り返って見ると、

そして何より、

に対するアクセスが、群を抜いていた。

 この二つのトピックだけでずいぶんと多くの人に来てもらえたということで、

  • Symantec社 と、
  • シュガー社員の方々

に、この場をかりてお礼を言わせていただく。

 来年は、どんなトピックで多くの人が来てくれるのか、今から楽しみにしている。

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2007/12/30

印刷会社と書店はどうなるのか

スクープ連発でも部数減 週刊誌は死にかけているのか
 J-CASTニュース
  [2007年12月29日]

 このブログでも、雑誌や新聞といった印刷媒体は、今後どんどん縮小していくだろうという発言を何度かしてきた。自分自身が紙媒体を読まなくなったことからの予想だった。それが現実に起こっていることを、具体的な統計が示しているようだ。

 表にまとめてみた。

    2007年上半期   前年同月比
週刊新潮   474,000  
週刊文春   526,000   -50,000
週刊ポスト   355,000   -50,000
週刊現代   350,000   -90,000
週刊朝日   189,700  
サンデー毎日     80,000  
ニューズウィーク
日本語版
   77,000  
Can Can

  524,000

  -120,000
      2005年下半期比較
週刊女性   216,000   -40,000
女性自身   315,000   -40,000
女性セブン   352,000   -20,000

 部数が減れば、広告の価値が低下するので、広告料が下がる。すると、記事にかけられる予算が減り、雑誌の魅力が低下して、さらに部数が減る。今後、部数が減ることはあっても、増えることはないように思われる。

 それもしかないことといえる。雑誌、特に週刊誌は、その発刊のサイクルから、情報の新鮮さが売りになっていた。即時性という点では、テレビや新聞に負けるものの、特別な装置を必要としないことや、価格に対して情報量が多いことが、週刊誌の強みだった。

 しかしそれも今や、インターネットの普及やテレビ放送が見られるケータイの普及で、週刊雑誌の強みがほとんど失われてしまっている。

 はっきり言ってしまえば、週刊雑誌の役目はすでに終わろうとしているといえるだろう。それは、新聞や月刊誌にもいえることなのだが。

 いくら出版社や印刷会社、書店が、再び盛り返そうと頑張っても、この流れは変えられないだろう。

 だとすれば、出版社、印刷会社、書店は、他に収益の柱となるビジネスを見つける必要がある。一般論で言えば、既得権益が大きければ大きいほど、既得権が失われようとしても、人はそれにしがみつこうとするものだ。それでも、出版社は、ビジネスの元である情報を、インターネットやケータイに流すことで、新たなビジネスを模索している。

 問題なのは、印刷会社と書店だろう。

 情報がどんどんオンライン化していってしまえば、情報を印刷する仕事も、印刷された情報を売る仕事もなくなってしまう。

 私は出版関係の仕事をしたことがないので、印刷会社や書店のビジネスが今度どうなっていくのかは、ぜんぜん想像できない。私自身、出版がなくなっても困らない、と思い始めているので、なおさらだ。

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2007/12/28

Wii で簡単 3D 体験

 ゲームで 3D を体験するなら、この技術で十分だと思った。

 大人数で映画を見るという用途にはむかないが、一人でゲームをするなら、この技術は極めて有効だと思う。

 特殊なディスプレイも、特殊なメガネも要らない。赤と青のめがねも要らない。極自然な動きで、画面が立体的な変化をする。

 必要な機材も \25,000- の Wii でできてしまう。

 ゲームパッドで遊んでいても、敵から攻撃を受けると身体を動かしてよけようとすることは、皆が経験していることだ。その自然な動きがそのままゲーム内での動きになるのだ。これほどすばらしいことはない。

 ゲームセンターで、ペダルを踏むと物陰に隠れるシューティングゲームがある。それよりもこの技術のほうが、数倍直接的な操作方法だ。

 しかも、身体を大きく動かすことになるので、エクセサイズの効果も期待できる。Wii Fit のようなまったりゲームでは満足できないユーザー層に訴求できるのではないかと思う。

 この映像を見たゲームメーカーが、この技術を使ったゲームを出すことを、切に願う。

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2007/12/27

最悪の事態を想定してますか?

 もうね、あきれてものも言えないわ。

【さくらパパ】 民主・横峯議員が日テレの番組で暴言・醜態を晒す
 痛いニュース(ノ∀`)
  [2007年12月26日]

 こんなのが簡単に議員になれる日本。やっぱり何かが狂っているとしか思えない。そして、単に知名度があるという理由で、議員に推薦する民主党。自民党も同じようなものだが、絶対におかしい。

 そして、同じようにおかしいのは、知名度だけで投票してしまう有権者だ。子供を一流のプロゴルファーに育てられたからといって、国の運営を任せられる根拠にならない。そんなことも気にせずに、「知っている」 というだけで投票してしまう有権者。その意識から変えていかなければ、日本の政治もよくなっていくはずもない。

 確かに、一般有権者が政治に無関心でいられるということは、政治や経済が安定しているということでもある。それは、もちろん歓迎すべき状況だ。

 しかし、その状況は過去に多くの人が努力して得られたものであり、自然発生的に出来上がったものではない。だからこそ、安定しているときにも、現状を維持するための努力が必要なのだ。

 残念ながら、多くの有権者は、物心ついたときから安定した状況に置かれているか、過去の不安定な時代を忘れてしまっている。今の状況が当たり前の状況であり、何もしなくても今の好ましい状況が、未来永劫続くものと勘違いしている。

 状況が悪くなってから対応するというのも、一つの手だと思う。しかし、私はあらかじめ予想される好ましくない状況には、事前に準備をして備えるほうが落ち着く。だから、多くの人が今後予想される社会状況の悪化に無頓着に見えることが、私にはとても不満だ。

 日本語には “言霊” という言葉がある。発せられた言葉には、何らかの力があるという考えだ。よく 「失敗したのは、お前が失敗するようなことを言ったからだ」 という発言を聞く。

 だから逆に、「物事がうまくいくように、うまくいかないときのことは言わない」 という考えを、多くの日本人が持ってしまっている。そして、計画のリスクの大きさを予想して、最悪の事態について警鐘を鳴らそうとするだけで、“計画を失敗させようとする人物” とのレッテルを貼られかねない。

 物事を成功させる上で、“楽観主義” は場合によっては有効だ。しかしだからといって、物事の危険度や回避策を検討しなくてよいということにはならない。

 常に最悪の事態を想定して、それに備えておくことは、ビジネス、ゲーム、人生、すべてにおいて重要だ。せめて、目立ちたがり屋のゴルフコーチを議員にした時の最悪ケースを、あらかじめ想像できるようになって欲しいと、私は願わずにいられない。

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2007/12/26

必要なのは官僚システムの刷新

山崎養世の「東奔西走」     
人民は弱し、されど官吏は強し
政府は薬害肝炎の立派な加害者だ

 山崎養世
  NBonline [2007年12月25日]

 「政府は薬害肝炎の立派な加害者だ」

 私もそのとおりだと思っている。むしろ、主犯の一人だと思っている。政府というとイメージがつかみにくいが、要は “官僚” だ。

 官僚は、多くの一般市民の犠牲の上に、税金から高給をもらい、様々な優遇措置を受け、退職後は天下りで濡れ手に粟の大金を手にする。その上、大量殺人に匹敵するくらいの犯罪者だ。今の日本は、そんな犯罪者集団が、主要な事案を決定して、運営している。私には、もはやそうとしか思えなくなっている。

 それもこれも、すべてシステムの問題だ。

  • 「人は現存するシステムの中で、最も効率よく自己の利益を得る手段を取る」

というのが、私の持論だ。官僚たちが一般国民の常識とはかけ離れた行動を取ったとしても、別に驚かない。彼らは現行システムの中で、もっとも効率的に富や権力を集めているだけなのだから。

 だからシステムを変えなければいけない。山崎養世氏が言うような、

薬害を発見し対応した人たちを、高く評価し、人事上も昇進させるべきです。

というようなことも、一つの方法だと思う。多くの人は 「なに、青臭いことを言ってるんだ」 と思うだろうが、間違いをいち早く訂正・修正できることは、ビジネスにおいては大きな強みとなる。それは国の運営においても同じはずだ。

 ところが、実際は省庁間の縄張り争いから、官僚たちは自分達の非を認めようとしない。非を認めてしまうと、他の省庁に弱みを握られることになってしまうからだ。

 これは、私が会社に勤めていたときにあった話だ。二つの異なるソフトウェアの連携機能がなかなか実現しないことだ。それぞれのソフトウェアの担当者達が、対等な立場で話し合いをしても、都合の悪いことを相手に押し付けようとするばかりで、有効な機能がなかなか実現しなかった。結局実現させるために、一人の責任者の下に、二つのソフトウェアの開発チームを統合する必要があった。

 省庁間の縄張り争いは、規模が大きいだけで、結局は開発チーム間で起こっていることと同じだ。だから、私にはよく理解できる。

 その対立する複数の組織を取りまとめるのが、国民に選ばれた政治家のはずなのだが、残念ながら、今はほとんど機能していない。福田首相も、官僚の手先に成り下がってしまっている

 やはり、システムを確立するしかないのだ。政治家の個人的資質 や 官僚のモラル・良心 に依存しないシステムをだ。

 最初に必要なのは、役人による裁量を認めないシステムだと思っている。もちろん、そんなシステムも実際に運用する上で、様々な問題が発生するだろう。しかしそれは、徐々に修正していけばいい。今は、とにかく役人に都合のいいように制度を変えられるシステムを大きく変えることが必要だと、私は思っている。

 オマケに、厳格なシステムどおりに運営するだけなら、役人に高度な能力は必要ないから、税金でまかなう人件費も安く押さえられる利点もある、と思っている。

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2007/12/25

理解不足は説明者の責任

 私は以前より、『伝えたいことが伝わらないのは、説明する側に問題がある。』 という立場を取っている。(“説明責任と、以心伝心と” 参照) また、確実に理解してもらうためには、『三回同じ説明を繰り返す必要がある。』 とも思っている。(“一つのことは三度目に理解される” 参照)

 そんな私から見ると、下記の記事は、ずいぶんとつまらないことを書いたものだと、少々ガッカリしている。

遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」
日本人はバカになったのか?
 遙洋子
  NBonline [2007年12月21日]

 遙洋子女史の記事には、一般大衆の視点からの鋭い指摘が多く、これまでもいろいろ感心させられてきた。しかし残念ながら、今回の記事はずいぶんとつまらないものに感じられる。

 確かに、いわゆる “ゆとり教育世代” といわれている人たちに、知識を軽んじる傾向があることは、私も感じている。だが、それと遙女子のいう 「理解力の欠如」 は、必ずしもイコールではないと、私は思っている。むしろ、「説明力の欠如」 を強く感じる。

 そして、「説明力の欠如」 は、何も “ゆとり世代” に限った話ではない。私より上の年代でも、高い説明力を持っている人のほうが少なかったように思う。

 本当に(戦後の)現代の日本人の説明力が低いのか、もし低いとしたら、なぜ低くなってしまったのか、私は具体的なデータを持ち合わせていない。ただ、現代の日本においては、

  • 物事が理解されないかった場合、説明者に責任が負わされることが少なく、理解者に多くの責任が負わされる

という社会常識を強く感じる。

 よく、「何だ? こんなこともわからないのか?」 といった発言が、それをよくあらわしていると思う。そういわれた理解する立場の人も、理解できない自分に責任があると思ってしまう。

 以前に言ったことの繰り返しになるが、多くの場合、

  • “説明内容が理解されないと、目的を果たせないあるいは損をするのは、説明する側の人間”

なのだ。

 であれば、やはり説明をする側の人間に、自分の話をきちんと理解してもらうための努力が必要だ、ということになる。

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2007/12/22

技能オリンピックの意義がわからない

技能オリンピック、日本はトップだったけど
 橋本久義
  NBonline [2007年12月10日]

 私も技能オリンピックでメダルを取った人たちの取材番組を少しだけ見た。あくまで私の邪推だが、「メダルを取れなかった人たちの取材もしていたが、“大人の事情” で放送しなかったじゃないのか」 、と考えているというのは秘密だ。

 さて、上記の記事を読む限りにおいては、技能オリンピック (正式には、“国際技能競技大会” というらしい) に、私は意義を見出せなかった。

 Wikipedia によれば、「参加国の職業訓練の振興と参加者の国際親善・交流を目的としている」 らしい。「参加者の国際親善・交流」 というのは、まあ、意味があるだろう。しかし、「参加国の職業訓練の振興」 というのは、いささか疑問だ。

 記事に書いてあるとおり、競技内容と、今現在現場で使われている技術に大きな乖離があるならば、「職業訓練の振興」 につながるのか、はなはだ疑問だ。

 22歳という年齢制限も私にはよくわからない。本当に生産技術の高さを競うのであれば、年齢は関係ないはずだ。たとえば、深絞り技術ならば、ロケットの噴射口をほとんど作っている日本に勝る国はない。

 しかし今のままでは、競技者の育成にお金を回せる大企業の名誉や宣伝のためのだけのものとしか思えない。もっとも、「それが最初から目的だ」 といわれてしまえば、それまでなのだが……。

 技能オリンピックで金メダルを取れるだけの能力があるならば、実際の生産現場においても、高い能力を発揮できる可能性が高いと思う。そして、生産現場で能力を発揮したほうが社会に対する貢献度も多いはずだ。そう考えると、単に競技のためだけの技術に、5年も6年も能力を使っているのは、「モッタイナイ」 と思えて仕方がない。

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2007/12/21

私も福田内閣を好きになれない

 福田康夫内閣が発足してから、まもなく3ヶ月が経とうとしている。

 就任までの経緯を見ても、安倍晋三首相の突然に辞任の混乱に乗じて、首相の座を手に入れた、胡散臭い政治家に、私は思えた。もちろん、政治的手腕が高いからこそ、首相になれたわけだが。

 官房長官の頃も、首相になってからも、記者会見の発言を聞いていると、私はいつも嫌悪感を覚える。なにかこう、政治屋の醜悪な部分の集大成のように感じてしまうのだ。

 そんな理屈ではない、感情的な不安の理由を、下の記事が説明してくれたような気がした。

“官僚に協調する”福田政権に感じる不安
 田中秀征の一言啓上
  nikkei BPnet [2007年11月29日]

 要は、1990年代に行き詰った旧来型の自民党手法を復活させたということらしい。

 ところが、政治家は政治屋となり、志高い官僚は自己利益のみを追い求める小役人に成り下がってしまった。そんな現在の状況では、旧来型自民党政治は、不正と腐敗を生み出すだけになってしまう。

 安易に旧来型政治に戻す福田康夫氏を、安易に首相にしてしまうこと自体、すでに自民党には期待ができないと思っている人は、私以外にも大勢いると、私は思っている。(かといって、民主党にも大きな期待ができないのが、非常に困ったことなのだが。)

 私は、常日頃から論理思考を最優先したいと思っている。ところが現実は、直感を優先したほうが間違いがない。直感に従い行動して、後悔した記憶がない。逆に、周りに流され、直感に逆らって行動で、後悔したことも数知れず。

 その直感に従えば、福田康夫内閣は支持できない。本当は、バルカン人並みに論理的に支持できない理由を言いたいのだが、感情的な好き・嫌いのレベルでしか表現できないことがとても悔しい。

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2007/12/20

効率のいい方法だとは思うけど……

 ソフトウェアを作るとき、中心となる部分は、言語 “非依存” の形で作って、言語依存の部分は、追加する形で作ることが、当たり前になっている。多くの人が使っている Windows もそうだし、Office もそうだ。インターネット上で配布されている小さなツールでも、各国言語用のモジュールを追加するだけで、任意の言語で動作するようになっている場合がほとんどだ。

 ソフトウェアの世界の話だと思っていたが、ハードウェア、しかも車の世界でも似たような状況らしい。

日本で売っても儲からない
だから世界戦略車で勝負

 浜田基彦
  NBonline [2007年12月18日]

 この記事の最後にこうある。

世界のどこでもない“某国”を想定して、素のカローラを設計する。トヨタは本当に「素カローラ」と呼んでいる。ここには各国の要求がほど良く盛り込んである。それを元にして国別のモデルに仕立て直す。日本向けはそのバリエーションの1つに過ぎない。

 まさに各国対応の後付だ。

 この “基本部分の一般化” 手法は、効率的だ。表示やメッセージの部分は、処理を行う部分と切り離しやすいので、基本部分を作る人は、他国の言語や文化を知らなくてよい。言語の壁がなければ、人材の確保がずいぶんと楽になる。最近では、インドやイスラエルに米国企業が外注しているという話も聞く。

 とはいえ、それは開発会社の経営者やマネージャーから見た場合の話だ。

 一般消費者、一般ユーザーとして私が考えると、ちょっと見方が変わってくる。

 基本部分が一般化されて、それに言語依存部分を追加しているということは、それだけ処理が冗長になっているということだ。日本語の使用 “だけ” を考えて効率よく作られたソフトウェアと比べれば、処理能力が遅くなる。

 日本人には一生必要のない機能まで実装されている部分もあるので、ソフトウェアのサイズも肥大化することになる。

 実装の仕方が悪かったりすると、他言語の仕様のために日本語ではうまく機能しなくなる場合もある。たとえば、英語では一文字の検索は意味をもたない。そのため、一文字で検索しようとすると検索を行わない実装がされてしまった。しかし、日本語の場合は違う。ひらがな・カタカナは意味がないが、“車” “家” といった漢字を一文字で検索することは、よくある。

 共通部分をなるべく多くして、各国語対応を最小限に抑えれば、確かに効率よく世界市場に向けた製品が作れる。コストを抑えて、安価に製品を提供するという経済的な観点から、それは正しいのだろう。

 しかし、製品を使うユーザーの立場から見ると、言語依存が減らされれば減らされるほど、その製品の満足度が下がるように思う。日本語に特化して作られた昔の製品の日本語処理についての満足度が90点以上だったとすれば、今の各国語対応された製品の日本語処理の満足度は、80点にも届いていないような気がする。

 具体的のどこがどうとうまく説明できなくて、申し訳ないのだが、昔の製品のほうが、米国製であっても、日本語処理の細かい部分を考慮して作られていたように思う。

 米国より1年遅れ、2年遅れという代償を払っての結果なのだが、満足度や安定性を考えると、その代償には十分価値があったと、今でも思っている。

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2007/12/19

こんなお店が当たり前になって欲しい

「売らない」ことも、大事な仕事
~たとえ、「欲しい」「買う」と言われても

 和田けんじ
  NBonline [2007年12月17日]

 このコラムは、東急ハンズの特異性の紹介を連載している。特に今回は、「これが本当に実践されているならば、なんとすばらしいことか」 と思った。

 客に 「売ってくれ」 と言われれば、何の疑問持たずに売ってしまう。むしろ、客を多少だましてでも売ってしまう、というのが、残念ながら今の小売商売の常識になっている気がする。

 あとでクレームを付けられても、「知らぬ」「存ぜぬ」 ではねつける。とにかく、数多く物を売って、短期的な利益を上げることが “正しい” 商売だという常識が、定着してしまっている。

 しかし、長期的な利益を考えるならば、お客に不満や不安を持たれないようにすることが、正しい。

 例えば、コンビニエンスストア。「買う人がいるのか?」 と思うような商品をよく見る。“弔事用ネクタイ”、“ガムテープ” や “三角定規とコンパス” などだ。確かにほとんど売れないらしい。しかし、どうしても欲しい人が来たときに、“確実に買える” ということが大切なのだそうだ。「あそこなら、かならず売っている」 という安心感が、割引のない定価販売を可能にしている、という話を以前聞いたことがある。

 東急ハンズの例では、お客が “欲しいもの” を聞くのではなく、“したいこと” を聞くことで、お客に期待以上の満足感を与えることができるだろう。

 また、東急ハンズの、売るときに返品やクレームの可能性を考えて、売るリスクが高い時は、“売らない” 手法は、結局は販売後にかかる手間や経費を削減してると見ることができる。

 そう考えていたら、ソフトウェア開発もそうだったことを思い出した。

 「ソフトウェア開発に、手間とコストをかけない」、「開発したら、とりあえず販売して元を取る」 などといって、ろくなテストもせずに発売すると、あとでとんでもないしっぺ返しを食らう。万が一にも “リコール”、“回収” などという事態になったら、パッケージを売って儲けた利益などあっという間に吹き飛んでしまう。

 バグ(不具合)の修正は、上流工程ではコストが極めて小さく、下流工程に行くほど雪だるま式にコストが膨れ上がる。ましてや、発売後のバグ修正には、巨大なコストがかかる。ソフトウェア開発の現場にいれば、そんなことは常識だ。

 しかし、素人に毛が生えた程度のマネージャーや経営者は、「とりあえず売って、問題が見つかったら、後で直せばいい」 と安易に考えてしまうようだ。最近では、ネットワーク型のゲームでよく見られるパターンだ。

 私は、対面販売とは対極にある開発チームで、“問題は上流工程でつぶせ” という手法を学んだ。ところが、上記の記事を読むと、その手法はソフトウェア開発に限らず、対面販売においても通用する手法なのだということがわかった。

 とすると、以前ここのブログで記事にした “テスティング手法” や “ユーザビリティ手法” なども、他の業種や職種に役立つ内容があるのかもしれないと思った。

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2007/12/17

キャリアパスに花束を

SEやプログラマーに忍び寄る“新しい”うつ
~ 専門家は語る(御茶ノ水医院 院長 市川光洋氏)【後編】~

 西川敦子
  ダイヤモンド・オンライン [2007年12月14日]

 私も、“うつ” という名の洞窟に何度も片足を突っ込んだことがある。記憶にあるだけでも三度ある。その度に自ら、カウンセリングを受けたり、休暇を取ったりして、洞窟の奥に迷い込んでしまうことを回避してきた。だから、上の記事に書いてあることは、決して他人事とは思えない。

会社の都合で一方的に行われる人事は、心に大きな軋轢を生む。

主任に昇格したばかりに管理業務を背負わされ、やがてうつ症状が現れた――。

 まさに私が経験してきたことだ。

「誰もが組織のピラミッドを登りつめたいわけではない。たいていの企業は、ワンパターンのキャリアパスしか設定していません」

 私の会社もそうだった。正確に言うと、私が所属していた日本の開発チームがそうだった。

 私もある時期を境に、専門技術者を目指すようになった。ところが、日本の開発チームには、勤続年数が長くなるとマネージャーとなるキャリアパスしかなかった。「給与は据え置きでもよい」 から、技術職で働きたかったが、マネージャーに

  • 「マネージャーのキャリアパスしか用意されていない」

と言われた。別なマネージャーには、

  • 「この会社のすべてのソフトウェアに精通して、すべてを完璧にテストできる自信があるなら、専門職として考える」

などという、極めて非現実的な条件を突きつけられたこともあった。

 マネージャーとして働いている人の多くは、自ら進んでマネージャーになった人たちだ。その人たちには、現場で専門技術者でいつづけたいと思うことが、理解できないのだろう。

 この極めて限定的なキャリアパスは、私のその会社への忠誠心を急速に低下させていった。

今の人事制度は、高度経済成長期に生まれたものだ。それから歳月が流れ、労働環境や人々の考え方は変わった。会社の事情に働く人が合わせるのでなく、働く人に合わせて会社が変わる――そんな時代がそろそろ来てもいいのかもしれない。

 これはまさに、私が会社を辞めようと考え始めたときから、ずっと思っていたことだ。しかし、そんな都合のよいことが起こるはずもなく、結局、私は会社を去ることにした。

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2007/12/15

これでいいのか、日本の裁判

日本の裁判官がおかしい
時代錯誤のエリート主義が生み出すトンデモ判決

 黒木亮
  NBonline [2007年12月14日]

 政治屋=立法、役人=行政 がおかしくなっているのは、私もわかっていたし、これまでも散々ブログのネタにしてきた。しかし、裁判官=司法 までおかしくなっていたとは・・・。これでは、本当に日本社会は、破綻していくしかなくなってしまう。

「今日動かす事件は、どんなに手持ちが多かろうが少なかろうが、限定されているわけです。だから、“50件持っていたら、ちゃんとやれる。しかし、200件持っているから、やれない”というのは言い逃れです」

 私もこの発言は、時代錯誤もはなはだしいと思った。炎天下の中を、水分を取ることも許さずに猛練習させるのと、同じにおいがした。今や、安全のために多目の水分を取りながら運動するのが当たり前になっているというのに。

  • 自分達のエリート意識を満足させるために、裁判官を増員しない。
  • 公正さを保つためにじゅうような情報開示義務がない。
  • 最終決定の権限を持つ裁判官が、書類を読まない・居眠りをする。

まさに、とんでもない状況だ。

 そして何より、私が一番問題であり、危険だと思ったのが、

国会の証人喚問以外で偽証が罪に問われることがほとんどなく、裁判は嘘のつき合いになっている

という部分だ。なるべく嘘をついて、相手を言いくるめた者が得をすることになる。正直者がバカを見るわけだ。

 嘘で固めて自分を有利にすることが当然のことになってしまっては、安心した生活ができなくなるではないか。それは、昨今の食品関連偽装事件を見ると、容易に想像がつく。

 また、「自分に不利になる発言をしない」 ことは、理解できなくもない。とはいえ、言わない嘘もある、という記事を書いたことがある身としては、自分に不利なことを発言しなかったことにも罰則が必要だと思っている。それがやりすぎであることは、十分にわかってはいるのだが・・・。

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2007/12/14

「社長、それはあなたが悪いのです」

「社長、それはあなたが悪いのです」

 なんて、一度いってみたいものだ。

こころ豊かで安全な経営とは何か
第82回社長の物差し、社員の物差し
 小山昇
  日経BP社 SAFETY JAPAN [2007年11月27日]

 ここでいわれている話は、社長と社員、100万円と1000円、だけの話ではない。自分が考えていることを、相手にわかってもらうための基本だ。

 私も20代までは、「なんで俺の言うことがわからないんだ。ちゃんと理解できるように努力しろよ!」 などと考えていた。

 自分の意見を理解させるためには、意見を言う側がわからせるための努力をしなければいけない。そんなことに気がついたのは、30代も後半になってからだった。もっと若いときにそれを理解していれば、私の人生もずいぶん変わっていただろと思っている。もちろん、よい方向にである。

 だから、自分の子供には、「相手が理解してくれないのは、相手が悪いんじゃなくて、あなたがうまく説明できてないからなんだよ」 といつも言い聞かせている。もちろん、それがきちんと理解できるのは、もっとずっと先のことになるだろうが。

 日本には “以心伝心” という便利な言葉がある。「俺の考えてることぐらい、言わなくてもわかれよ」 というやつだ。しかし、以心伝心は特別な間柄で自然と出来上がるものだ。権限のある者が、部下に対して強制をするものではない。強制されたところでできるものでもない。

 さらにひどい場合は、以心伝心できない部下は、“役立たず” のレッテルを貼られたりする。しかしそれは、権限ある者の説明能力のなさを、部下に転嫁しているだけのことだ。

 権限がある者は、他の者に対して理解させる責任があるはずだ。しかし実際には、やろうとしていること、やっていることをうまく説明できる権限がある者は、少ない。日本における最たる者は、政治屋であり、高級役人 だろう。日本がうまくいかなくなりつつあるのも、あたりまえといったところか。

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2007/12/12

テレビ番組劣化の理由

大競争時代のBI活用術
情報ブロードキャスト メディアの行く末
 米野宏明
  ZDNet Japan Blog [2007年12月7日]

結局地上波テレビはできるだけ多くの人がひとまず楽しめそうなレベル感に落ち着く以外に手はなく、くだらないものばかりが残ることになったのでしょう。

 なるほど。なかなか興味深い説だ。

 私は以前から、「電波によるテレビ放送はもうやめたほうがいい」 ということを、何度か言ってきた。自分でもうまく説明できてこれなかったが、上記のブログに書かれているようなことを、私も感じていた。もちろん一番の理由は、貴重な電波資源を独占した一部の企業が、利益の独占をしている現状が、極めて不健康に思えることなのだが。

 私としては、米野宏明氏のように、“現在のテレビ放送のあり方”、“テレビ報道のあり方”、“地上波デジタル放送の意義”、等などに、積極的に疑問を投げかける人が、一人でも増えてくれることを願うばかりだ。

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2007/12/11

数値はひとり歩きする

他人が作った数字を疑い「数字を見る目」を養う
会社の数字に強くなる<第5回>

 水越豊
  NBonline [2007年12月11日]

 私も会社の第一線で働いていたときは、いつも言われていた。「具体的な数字を出せ」 と。いつしか、あちこちからデータをかき集めて、自分の主張の根拠を数字で示すことが当たり前になっていった。

 具体的な数字を出すことで、他人を説得しやすくなり、自分の主張する機能を実装しやすくなる。

 自分が散々使っておいて言うのもなんだが、具体的な数字を出されると “説得力がある” というのが曲者なのだ。上記の記事でも言われているように、背景となっている条件をきちんと把握しないと、とんでもない誤算を招く。

 政府の発表する出生率予測など、いい例だ。政府は常に 「出生率は今後上昇する」 と言い続けている。しかし、現実の出生率は下がる一方で、上がる気配を見せない。それはひとえに、政府の前提が 「少子化対策が有効である」 という、“極めて非現実的な” 前提に基づいているからだ。

 逆に、示したはずの前提がいつの間にか忘れ去られてしまい、データを提示した者が 「うそつき」 呼ばわりされることもある。

 私が担当したアプリケーションの新機能を、ユーザビリティ テストしたときのことだ。新機能は、特定の作業をまとめて、単純化したウィザード型のものだった。該当アプリケーションの未経験者向けに実装したものだ。結果は良好だった。

 報告書には、「“未経験ユーザーに対して”、極めて有効に機能した」 と書いたにもかかわらず、時間がたつにつれて、いつの間にか 「すべてのユーザーに対して、有効な機能」 と思われるようになってしまった。

 致命的だったのは、営業・販売部隊に勘違いされたことだった。その機能を、前バージョンの機能のスーパーセットと広告されてしまった。発売後、既存のユーザーから、「機能が減っている」、「使い勝手が悪い」 といったクレームが多く寄せられてしまった。

 それはそうだ。既存のユーザーには、従来どおりに使ってもらおうと思っていたのだから。新機能は、従来のユーザインタフェースでは、うまく使えない新規未経験ユーザーに対して、機能を最低限に絞って、わかりやすくしたものなのだから。

 営業・販売部隊と、密な連絡・連携が取れなかったための失敗であった。私にとっては苦い経験だ。

 出された数値が一人歩きをして、私のように痛い失敗するケースがある。一方で、数値の一人歩きを見越し、他人を陥れて、だまそうとする輩もいる。

 自分が数値を伝えるときは、本文よりも何倍も強調をして前提条件を伝える。他人の出した数値を読むときは、上記の記事でも言われているように、荒唐無稽な前提が使われていないことをしっかりと確認する。数値を一人歩きさせないための、重要なテクニックだ。

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2007/12/10

成果主義の先を予想してみる

 日経ビジネス オンラインが興味深いアンケートをやっていた。

特集 ザ・ターニングポイント
~イノベーションの軌跡
このままでは成果主義で会社がつぶれる
読者アンケートに悲痛な声が続々

 鶴岡 弘之
  [2007年12月10日]

 私のスタンスとして、

  • 「人は本当のことを言わない」
  • 「人は言うことと、やることが違う」
  • 「アンケート結果は、全体を代表していない」

以上の三点がある。ユーザビリティ テストの経験から得たものだ。

 私の質問に対して、「こちらが期待していると思われる意見を言う」、「『初心者にはいいと思う』といった自分以外の立場で意見を言う」、「『とても便利ですね』と言いながら、実際にはその機能を使わない」 ということは、日常茶飯事だった。また、テストの被験者はやはり、ある程度コンピュータに興味のある人に限定されてしまう。

 ということで、このアンケート結果も、記事がすべてだとは思っていない。編集方針として、“成果主義 = 悪” というシナリオがあるの “かも” 知れないと思って読んでいる。

 とはいうものの、数字そのものにウソはないだろう。自由記述の内容も、私が経験してきたことと、気持ち悪いくらい類似している。

 思うに、“成果”主義 という名前に問題があるように思う。経営者側が考える “成果” と、従業員側が考える “成果” に、まず、ずれがあるように思う。また、上記記事の本文でも触れられているとおり、人件費削減 “のみ” に使われているケースも多いのだろう。私が以前書いたように、評価する中間管理職が “成果” とは異なることで評価するケースもあると思う。

 ちょっと例えがよくないが、今の “成果主義” と言うネーミングは、独裁者が “治安維持” という名目で、反対者を弾圧するのと似ていると思った。

 “治安維持” と言われて反対できる人は、おそらくほとんどいないだろう。「治安がいい=善、治安が悪い=悪」 という常識がほとんどの人の認識だからだ。しかし、“治安維持” の名目で、独裁者が弾圧を行うのは、ほとんどの人には “害悪” でしかない。

 同じように “達成した成果により報酬が決まる” と言われれば、多くの人は賛成するだろう。極度な年功序列が続いたため、たいした仕事をしていなくても在籍しているだけで高い給与をもらっているという不公平感が、多くの人の認識に定着しているためだ。

 ところが、その “達成した成果” を決めるのは経営者達であり、「君は目標を達成していない」 と言われれば、ほとんど反論できないのが今の “成果主義” だ。独裁者による治安維持となんら変わらない。

 だとすれば、経営者に “のみ” 都合のよい “成果主義” の行く末は、見えてくる。独裁政権下では、優秀な人材は難民として流出をする。海外に逃亡できずに、圧政下に置かれている人たちの生産性は、極度に低下する。結局、独裁国家は内部から崩壊していく。そのことは歴史が証明している。

 経営者向け “成果主義” では、本当に優秀な人材は残るのかもしれない。しかし、優秀な人たちも、多くの “普通” の人たちに支えられてこそ、優秀な “成果” が達成できる。ところが、支えるべき普通の人たちが、その会社から難民者のごとく流出していく。残るのは、優秀な人たちと、会社にしがみつく普通 “以下” の人たちだ。十分な支援が得られなくなった優秀な人たちも、仕事が満足にできなくなって、やがては流出していくだろう。すると、残るのは会社にしがみつく人たちだけだ。

 そうなれば結果はおのずと見えてくる。

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2007/12/08

ビジネス視点で見てたのね

朝青龍謝罪で思う、大相撲ビジネスにおける経営の不在
 山崎元
  ダイヤモンド・オンライン [2007年12月6日]

 この記事を読んで、私もビジネス視点で朝青龍問題を見ていたことに、気がついた。以前書いた記事を読み返してみると、朝青龍個人の良し悪しよりも、日本の相撲業界にとって、どのような手段が適切なのか、という視点で書いている。

 もっとも、日本相撲協会は、朝青龍の横綱残留を決め、横綱審議会も朝青龍に謝罪を求めるにとどまった。現在の強い力士不在の状況から、既存の相撲ファンも朝青龍の復帰を喜んでいるように見える。

 私の予測はまったく持って外れたということだ。

 とはいえ、既存の相撲ファンは喜んでいるかもしれないが、それ以外の相撲に強い関心がない層の人たちは、大相撲そのものにしらけてしまっているように見える。

 朝青龍問題、それに伴う日本相撲協会の当事者意識のなさ、高砂親方の指導者としての頼りなさ、横綱審議会の無責任ぶり、若手力士のいじめによる死亡事件。

 これらのことを、一般の人たちも絶えず目にして、大相撲という “ショー ビジネス” を楽しめなくなっている。夢を見させてこそ “ショー ビジネス” が成り立つ。裏の現実社会のドロドロした部分を見せ付けられては、夢を見ることはできない。

 大相撲が持つブランドイメージは、“強いこと” はもちろんのこと、“礼節” や “形式美”、“正々堂々” といった日本の伝統的な良さを見せるところにあると思っている。

 それが、“強ければ何をやってもいい”、“金儲けのためには手段を選ばない” では、「そんなのは大相撲じゃない」 と言って、一般のファンが離れていっても当たり前だ。

 日本相撲協会も、引退力士の仲良しクラブから早急に脱却をする。横綱審議会も “本当の” 有識者からなる組織に作り直す。私ですら、大相撲を今後も存続させるためには、こういったことは必要だとわかる。

 別に大相撲がなくなったからといって、私の生活が困ることはない。個人的にも大相撲に思い入れがあるわけでもない。

 にもかかわらず、記事にするくらい気にするのは、ユーザビリティ癖の所以だろうか。うまくいっていない物事、仕組み、仕掛けを見てしまうと、ついつい、どうしたらうまくいくようになるかを考えてしまう。

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2007/12/07

うちのカミさんもそんな感じかな

 世界中には、いろんなことを調べている人たちがいるものだ。

女性の外出は一大事
――女性が支度にかける時間は、一生のうちの3年間に相当!
 Internet Journey (UK Today) [2007年11月26日]

 実際の調査結果と、前から 「そのぐらいは時間を使っているよな~」 と思っていた時間が、それほど違っていなかったことに、思わず苦笑いしてしまった。

 家族で出かけるときは、たいていカミさんの準備がボトルネックとなる。その時間をいつも “一時間” と見積もっていた。そのほかに、朝食を取る時間等も見積もって、外出する朝の起きる時間を決めている。

 毎朝、子供を人通りの多いところまで送っていくのは、私の仕事だ。ずっと以前はカミさんがやっていたのだが、ほんの数百メートル外に出るためだけに、30分も一時間も準備に時間をかけていたのでは、極めて効率が悪い。結局私が5分で準備を整えて、子供を送っていく。

 カミさんが一人で外出するとき、以前は玄関で見送っていた。だが、最近はほとんど玄関まで行かない。なぜなら、見送ったあとに必ず戻ってくるからだ。理由は様々で、「スカートと靴の色が合わない」、「思ったより寒かった」、「鍵を忘れた」、「ケータイを忘れた」、等など。多いときは三回ぐらい引き返してくる。結局、いつになったら出かけるのかと、こっちがいらいらしてくる。そして、いらいらしないように、玄関まで行かないことにしたのだ。これなども、“コーディネートの「最終確認」” の部類なのかもしれない。

 女性にとっては、これが当たり前のことなのかもしれないが、少なくとも私には、“一生理解できないことの一つ” だと思ってあきらめている。

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2007/12/06

今に始まったことじゃないと思うんだよね

 なにやら、“テラ豚丼” なるものが、悪い意味の話題になっている。

 (あらかじめ宣言しておくが、この事件を起こした吉野家を、私は快く思っていない。BSEの疑惑が残る米国産牛肉を率先して、まっさきに店頭販売した吉野屋を、私は信用していない。)

 これはあくまで私の想像なのだが、吉野家厨房でのこの手の悪ふざけは、今回が初めてではないと思っている。自分達のまかない等で、大昔から散々現場でされてきたことだと思っている。そして、普段からなにげにやっていたので、大きな問題とも思わずに、ビデオに撮影をして、なおかつ、投稿サイトに投稿してしまったのだろう、と私は推測している。

 公になってしまったことで、吉野家本社は、動画を撮影、投稿した関係者を処分したようだ。しかし、もし、これが公になっていなかったとしたら、果たして、同じ行為を行った店員は処分されただろうか。間違いなく、処分されなかっただろう。

 「本社は知ることができなければ、処分できないのは当たり前だ。」 という意見はもっともだが、そもそも、全体を管理する責任がある本社機能が、自分のあずかり知らないところで、こういうことが行われていること自体が問題である。そして、こういう行為が行われないように、店員のモラルをあげる責任がある。仮にこういう行為が行われていたとしたら、それをすぐに察知して、公になる、ならない関係なく、処分を行うべきである。さらに一番いいのは、第三者に公にされる前に、自らが処分を公表することだ。

 外部に言われる前に、自らが謝罪と反省をすることで、社会と一般消費者の安心と信頼を勝ち得ることができる。そのことは、その会社にとって大きな利益をもたらすはずだ。

 現実には、役所も企業も、問題が公になっていなければ、公にならないように工作をして、内内で事件をなかったことにしてしまう。その結果、後でわかってしまい、いっそう悪い状況に自分達を追い込んでしまう。

 ミートホープから始まった一連の食品偽装事件の当事者達は、例外なく事件を小さく見せようとウソをつく。そのウソもすぐにウソとばれてしまい、いっそう自分の立場を悪くする。

 今回の テラ豚丼 事件を見てもわかるとおり、社内のちょっとしたことでも、ネットワークを通して簡単に世界中に配信されてしまう。今はそういう時代なのだ。企業にとっては、社内の小さな問題が、簡単に社外に公開されてしまうリスクを持っているということだ。そのリスクを下げるには、何よりも高い社員のモラルが必要となる。しかし、社長や取締役がモラルのない行動をしていれば、おのずと社員もモラルのない行動を取る。

 これから、生き残っていく企業は、今まで以上に経営陣の高いモラルが要求される。そんな時代になったと、私は考えている。

 動画は、静止画や文章などよりはるかに大きな説得力を持つ。YouTube に始まる動画投稿ブームは、テレビ放送だけでなく、国や企業のあり方も変えようとしているように、私には思える。そして、動画投稿は、インターネットなしには存在し得なかった。

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2007/12/05

なぜ私がサポートを気にするのか

 前回、前々回とサポートの対応によって、顧客離れ、企業イメージの損失について話をした。私自身はサポート業務の経験はない。しかし、製品サポートの大切さは、身をもって経験してきたつもりだ。

 私が前の会社で働いていたときの話だ。最初の製品が出荷された直後、1992年ごろのことである。当時はまだサポートを電話と手紙でのみ行っていた。そして、サポート チームは、電話対応の記録のコピーと郵送されたサポートシートのコピーを、定期的に開発チームに回してくれた。回ってきたコピーは、開発チーム内で回覧をして、気がついたことがあれば、書き込みをして、サポート チームへ返却していた。

 2~3ヶ月サポート内容のコピーを読み続けた頃だろうか、私は、サポート チームがユーザーに間違った内容を伝えているケースが多いことに、耐え切れなくなっていた。できることを 「できない」 とユーザーに伝えたり、一つの機能でできることを、複数の機能の組み合わせでユーザーに教えたり。我慢しきれなくなった私は、サポート チームに文句を言いに行くことにした。

 1~2週間、毎日のようにサポート チームへ出向いて、サポート担当者達と話をしていくと、ある重大な問題に気がついた。サポート担当者達が、製品について正しい情報を知らないのだ。

 サポート チームは、新製品の発売に合わせてサポートの準備を始める。新製品発売前なので、製品開発が終わっていない段階でサポート チームは準備を始める。そのために、出荷直前で見つかった問題の対応や、問題回避のための仕様変更が、サポート チームに伝わらず、変更前の情報でサポートしていたりしていたのだ。

 「これではまずい。私が作った製品がユーザーに誤解されていく。」 という危機感を持った私は、時間を見つけてはサポート チームに顔を出して、質問に答えたり、開発の都合による仕様変更などの情報を伝えていった。

 その結果、回ってくるサポートの品質が、目に見えて高くなっていった。それを見て、一人で喜んでいたものだった。

 サポート担当にしてみれば、自分が作ったわけではない。にもかかわらず、問題が発生して、怒っているユーザーに頭を下げるのは自分達だ。ユーザーに答えようにも情報を持っていない。ユーザーの不満を開発に伝えても、まともに取り合ってくれない。

 これでは、サポートの質が上がるはずがない。

 私自身は、別にサポート全体の質を上げようと思って、サポート チームのサポートをしたわけではない。ひとえに、自分担当した製品が正しくユーザーに使われないのがイヤだったのだ。

 私は、ユーザーが自分の製品を正確に理解をして、正しく評価することを望んだ。サポート チームは、自信を持って製品がサポートできることを望んだ。

 あのときの私行動は、私とサポート チーム、両者の望みを同時にかなえるもだった。だから、自分も満足できたし、サポート チームからも感謝された。今でも、あのときの私の行動は、とても有益であったと信じている。

 ひるがえって、最近のサポートは、アウトソーシングが進み、一つのサポート会社が、複数の会社の複数の製品を扱うことが普通だ。そして、サポート担当者の評価は、単位時間当たり、いかに多くの問い合わせを処理したか、でされている。そんな状況では、サポート担当者は、問い合わせ内容をよく吟味せずに、事前に準備された回答で返答するだけになってしまう。もちろんそれでは、問い合わせた人が満足できるサポートになるはずもない。

 前回で述べているように、サポートの良し悪しは、その企業のイメージ、製品イメージを左右する。良いサポートは、その製品価値を高めてくれるのだ。ところが、宣伝広告には予算をつける努力をするのに、サポートには予算を付けない努力をする。

 大々的な宣伝広告をするのに比べて、サポートが貧弱な会社を、私は信用しない。良い製品やサービスを提供しているなら、良質なサポート体制を準備したとしても、それほど予算を必要としないはずだ。

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2007/12/04

サポートと企業イメージと

 前回の記事で、悪いサポートが簡単に顧客を失う話をした。そして、失うのはサポートに電話をしてきた一人の顧客にとどまらない。

 以前、情報処理学会で、ユーザー サポートについて研究している教授の公演を聴いたことがある。それによれば、サポートに電話をかけるユーザーは極少数であり、大部分のユーザーは、よくわからない製品を、サポートに問い合わせることもなく、使用しなくなるということだった。いわゆる、“サイレント・マジョリティ” だ。当然、使わなくなった製品と同じメーカーの製品を買うこともなくなる。だから、「サポートに問い合わせてきた顧客をできるだけ大切にして、なるべく多くの情報を聞き出すようにせよ」 という話だった。

 そして、サポートに問い合わせるような人は、口コミ力も強いと考えられる。

 AI(アフター・インターネット=インターネット以後)は、BI(ビフォー・インターネット=インターネット以前)に比べて、口コミの影響力が格段に上がっている。BIでは、極少数の閉じた世界だった電子掲示板も、AIでは巨大掲示板となり、大多数の一般市民が見るようになった。

 また、BIの時は一般の人が、日本中に自分の意見を知らせようとしたら、全国紙に投稿するとか、よく売れている雑誌に投稿すとかするしかない。しかも、出版社の恣意的な取捨選択が行われるため、自分の意見を広く世間に知らせることは、容易ではなかった。AIの今では、誰もがブログやホームページで簡単に自分の意見を、全世界に向けて発信することができる。

 その結果、BIでは、情報を管理で自らの失策を隠してきた中央省庁も、AIになり、個人が簡単に情報を世界中に発信することで、失政を隠しきれなくなっている

 中央省庁でさえそうなのだ。大企業といえど、民間企業が自社に都合の悪い情報を、もはや封じ込めることはできない。「サポートが悪い」、「製品の問題にきちんと対応してくれない」 といった情報は、瞬く間にインターネットを通して広がっていく。それは、製品イメージ、ひいては企業イメージに致命傷を負わせることになる。

 “東芝クレーマー事件” は、そのことを世間に知らしめた事件だったといえる。

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2007/12/03

サポートは企業の大切な顔

 企業のサポート部門が、その企業の重要な “顔” の一つである。特に、商品やサービスを、一般消費者に提供している企業においては、その企業のイメージを左右しかねない、重要な “顔” である。

 ところが、規模の大きな企業や著名な企業であっても、その大切な “顔” をまったく気にしていない場合が多いように思う。

サントリー、一般社員がお客様センターで1日電話体験
「100-1=0」を合言葉に「お客様第一」を徹底

 川又 英紀
  NBonline [2007年11月29日]

お客様視点気づき講座での合言葉は「100-1=0」であり、これは「たった1人の社員の間違った行動でサントリー全体(100)が否定され、これまで築き上げてきた顧客からの信頼が一瞬にしてゼロになり得る」(亀田敦・お客様コミュニケーション部マーケティングサポートセンター課長)ことを意味している。

 私はこの 「100-1=0」 の公式は、多くの会社、多くの製品の場合で当てはまると思った。

 サポートをしている人は、毎日、数十人、数百人に対応している。顧客の一人は、百分の一、千分の一でしかない。

 しかし、顧客から見れば、サポートで対応してくれた人は、一分の一であり、“サポートの対応に出た人” = “その会社の代表” となってしまう。そして、サポート担当の不用意な態度、発言が、サポートを利用した人の、その会社の悪いイメージに直結していく。

 友人の話になるが、近々発売される話題のケータイを予約したそうだ。先着5000名には先行予約特典がつく、ということで、急いで予約したそうだ。ところが、契約の段になって、問題がでた。登録した住所と送った免許書のコピーの住所が違っていたそうだ。理由は、市町村合併だ。予約サイトからは、合併前の住所しか入力できなかったために起こった問題であった。つまり、ケータイ会社側の不手際だ。それなのにあろうことか、ケータイ会社は、「住所が一致しないの契約できない」 と言ってきたそうだ。契約するためには、「新たに予約をしなおす必要がある」 そうだ。もちろん、予約を取り直せば、先行予約特典はなくなる。

 自社の問題を認めず、杓子定規に対応するサポートに怒り、その友人はケータイの予約を取り消したそうだ。サポート担当の不用意な対応によって、優良顧客を一人失ったわけである。それを聞いた私も、もちろん該当のケータイ会社には乗り換えまい、と考える。

 私自身の経験について書けば、シマンテック社のサポートには言いたいことが山ほどある。サポート期限が切れたら、他社へ乗り換える予定だ。そして、私の記事を読んで、Norton 360 の購入を思いとどまった人が、一人や二人いてもおかしくない。

 次回は、このインターネットを通じた、悪いサポートによる悪い企業イメージの口コミによる拡散について書く予定だ。

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2007/12/01

身近すぎると、気がつかないもの

人の心を見る技術が社会を変える
(CSR解体新書19)製品評価などに使うと有益だが・・・

 伊東乾
  NBonline [2007年11月27日]

 今回は、この記事全体についての話ではなく、導入部分の話についてだけ取り上げる。

日本のホームレスが新聞を読んでいるのを見て、インド人社長が嘆く。曰く、「ああ、これでは当分、インドは日本に敵うわけがない!」 と。

「だって日本では、文字を読める人が、仕事がなくて路上生活しているのでしょう? 自分の郷里ではこんなことは考えられない。文字が読めれば必ず仕事がある。いやはや日本の人材層の厚さは底知れない、と改めて圧倒されました」

 これを読んで、「なるほど」 とうならされた。

 新聞を読んでいるホームレスなど、私もしょっちゅう目にしている。いわば、当たり前の光景だ。そもそも、現在の日本人で基本的な読み書きができない人がいるということは、私には想像できない。

 しかし、世界的に見れば、日本のような状況は極めて特殊だと言うことを、あらためて思い出した。米国でさえ、読み書きができない人は意外と多いそうだ。以前に何かの特番で取材しているのを見たことがある。それなりに自立している40代ぐらいの男性が、実は文字が読み書きできない。本の感想を聞かれると 「あなたはどう思いましたか?」 などと言ってごまかしてきた、と言っていた。

 実は、ソフトウェアのテスティングやユーザビリティも、この “身近すぎると気がつかない” ことの繰り返しなのだ。

 日常的にパソコンにさわっていると、たいていのことが日常になってしまうため、一般ユーザーにとって、何がわかりやすくて、何がわかりにくいのかが、わからなくなってくる。

 ユーザビリティ → テスター → プログラマー にいくにしたがって、いっそうその傾向が強くなってくる。一般ユーザーにはパソコンが難しい、ということを理解できないプログラマーもいたし、「難しいのならパソコンを使うな」 と言い切るプログラマーもいた。

 プログラマーならそれでもいいのかもしれないが、テスターやユーザビリティ担当は、それではいけない。

 上記の記事のインド人の目と同じように、自分達とは違った文化(=職種)の人の目で見て、自分達が問題を見落としてないか、きちんと確認をしていくのは、重要なことである。

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