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2008/03/22

必要なのは裁判員制度ではなくIT化、と言ってみる

 裁判員制度が来年から始まることになっている。Wikipedia によれば、

一定の刑事裁判において、国民から事件ごとに選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に参加する日本の司法・裁判制度をいう。裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(平成16年法律第63号。以下「法」という)により規定され、2009年(平成21年)5月までに開始される予定。

ということだそうだ。

 法律や制度に詳しいわけではないので、あくまで個人的な印象だが、裁判員制度も “ゆとり教育” と同じように短期で見直し、そして事実上の廃止になるような気がしている。

 そして、下の記事を読んで、その印象はいっそう強くなった。

伊東乾の「常識の源流探訪」     
法を免疫不全に陥らせるな!
知らぬ間に踏み込む違憲の罠(CSR解体新書33)

 伊東乾
  NBonline [2008年3月19日]

 この記事の中の以下の部分から、強くそう感じた。

    • 「裁判なんてね、論理もへったくれもありませんよ。法廷の実務は、いかにして裁判官の情状を取るか、それだけですね。法律は学問なんかじゃない」
    • 「最後は情状ですよ。判決を決めるのは」
    • 「裁判の本質はお情けにかかっていて、それを巡る腹芸の応酬だ」

 これらが本当にそうなのか、あるいは答えた先生の独断と偏見なのかは、私には残念ながら判断できない。しかしながら、「実際、そんなもんなんだろうなぁ」 と妙に納得させられる話ではある。

 もし仮に上記のコメントが現在の裁判制度を言い当てているとすれば、なおさら裁判員制度がうまく機能する可能性はなさそうだ。

 数多くの裁判を経験している裁判官ならいざ知らず、そのときが最初で最後の一般市民であれば、それこそ裁判をしている事件そのものよりも、被告に対する情状にだけ気が向いてしまうと思うからだ。

 米国での裁判では、すでに 「いかに陪審員の同情を引くか」、そもそも 「どのような陪審員を選ぶか」 で、有罪か無罪かが決まってしまうとも言われている。“O. J. シンプソン事件” がよい例である。

 おそらく日本の裁判員制度でも、類似のことが問題になってくるだろうと予想している。人種差別や偏見がないと思われている日本だが、まったくないわけではない。

 加害者の職業や経歴、被害者の評判、などなどによって、似たような複数の犯罪で正反対の判決が出てくる可能性もある。

 そうなったときに、はたして多くの日本人は、そのことを素直に受け入れることができるだろうか。私はかなり難しいと思っている。

 もちろん、今の裁判制度が最良のものだと、思っているわけではない。ただ、今回の裁判員制度には、役人のよくある 「ぼくが かんがえる さいこうの せいど」 感を、どうしても感じてしまう。だれでも思いつくような都合の悪い点を一切無視して、自分が考えたシナリオだけが実際に起こると仮定して作られた感じが、どうしてもしてしまう。

 ではどうすればよいのか。あくまで法律素人の私の考えという前提での話として読んで欲しい。

 紹介した記事ではっきりと否定されている

法律データベースに基づくコンピュータによる判決

をベースに、

裁判官が経験による修正を加える

のが、意外と万人が納得しやすい判決を出せそうな気がしている。

 スポーツでも昔は審判の主観が絶対であった。しかし、ビデオ機器の発達によりテレビ中継が問題のシーンをすぐに再生できることで、審判の判定が間違っていることがすぐにわかってしまう。そのような状況において、もし審判が自分が正しいと主張すれば、逆に審判の信頼性を落としてしまう。

 裁判でも、これまでは人の記憶に頼ってのみ判決が下されていたものを、文明の利器を使って、もっとシステマティックに判決を下すようになっても、いいのではないだろうか。

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