TPPに関して思うこと
2011年10月27日現在、TPP (環太平洋戦略的経済連携協定) の交渉に参加するかどうかで政府も国会ももめている。
私個人の TPP に対する考えは 『参加すべきでない』 である。
私は経済の専門家ではないし、貿易の専門家でもない。単なる1市民の考えでしかない。得られる情報も限られているし、その限られた情報から下した判断なので、大きな勘違い・思い違いで判断している可能性も高い。
それでも 「TPP に参加すべきでない」 と、強く思っていたりする。
その大きな理由の一つが、
「『現在の状況が今後も変わらない』、ことを前提にしている議論の話しか聞こえてこない」
点にある。
たしかに現在は、日用品や食料品等を他国から好きなだけ輸入することができる。むしろ、米国や中国は、積極的にモノを買わせようとしている。
しかし、歴史を見ればわかるように、一時の状況が未来永劫まで続くことはありえない。貿易品に限ってみても、“オイルショック” や “砂糖・小麦粉・コーヒーの品不足”、“レアアースの輸出制限” 等々、それまで簡単に輸入できていたモノが、急に輸入できなくなることが幾度も起こっている。
仮に、TPP に参加をして、一時的に安価な食料品が大量に輸入されたとする。日本の一次産業は、かなりの縮小を余儀なくされる可能性がある。
そして、もし、その後に世界規模の食糧不足が発生したら、日本は他国以上に食糧不足になってしまう。輸出国に 「売らない」 と言われれば、輸入することはできなくなってしまうのだから。そして、それまでに失われた農地や農業技術を復活させるのは容易ではない。
「いや、農産物の輸出もしやすくなるのだから、日本の農業も拡大するはずだ」 という意見もあるだろう。私も、そうなる可能性は十分あると思っていた。3月11日までは。
3月11日以降に、福島の原子力発電所が放射能漏れを起こして、日本の農産物を輸出できる機会は永久に失われた、と、私は思っている。
以前にこういう話を聞いて、妙に納得してしまった。
「店先で買おうと思っていたショートケーキに、ハエが止まっているのをあなたは見た。ハエは歩き回らずにそのまま飛んで行ってしまったが、さて、あなたはそのショートケーキを買う気になるだろうか?
理屈から言えば、ハエが止まっていた部分を排除すれば、ハエが止まっていないショートケーキと何ら変わらないはずだ。しかし、『ハエが止まった』 という事実、それだけであなたはそのショートケーキ全体が汚染されたように感じるはずだ。
ショートケーキを 『日本』、ハエを 『福島原発』 に置き換えれば、汚染されているのは福島原発周辺だけであろうと、海外から見れば、日本全体が汚染されているように感じてしまうはずだ。」
放射能汚染されたように感じる農産物を、どこの国の誰が買いたいと思うだろうか。逆の立場であれば、私は買いたいとは思わない。なぜなら 『中国産』 というだけで購入にかなり抵抗がある私がいるからだ。
今後の世界的な人口増加に備えて、自国でなるべく食料をまかなえるようにすることが最も重要なことだと、私は思っている。証券取引がなかろうが、自動車がなかろうが、コンピューターやケータイがなかろうが、人間は生きていける。しかし、食べるものがなくなれば、人は生きていくことができない。どちらが最重要かは、自明であるように私には思える。
そして、人口減少。世間一般には、人口減少は労働人口の減少や市場規模の縮小として、悪いこととされている。しかし、日本の狭い国土で自給自足を考えた場合、むしろ人口減少は都合がよいととらえることもできるのではないだろうか。
北欧には日本よりはるかに人口が少なくても、日本と同等以上に豊かな生活を送っている国がいくつもある。
その昔、「巨大戦艦と巨砲こそが強い軍事力の証」 という時代があった。だがその後、戦艦よりはるかに小さい航空機と空母の組み合わせが、巨大戦艦を時代遅れにした。人間社会も似たようなことが起こっているのではなかろうか。
巨大な組織を作って、数の力で国力を誇る時代が過ぎ去り、情報機器を使って個人同士が直接つながって大きな力を持つ時代になってきているように思える。
その意味で、人口 (というよりは安価な労働力) を意図的に増やすために、安易な移民受け入れには、私は絶対に反対である。欧州の移民政策の失敗を見るとなおさらそう思う。
ところで、
私が学生の時、『生類憐みの令』 は “天下の悪法” と教わった。それが最近では、「生類憐みの令 は当時の日本人に 『生命の尊重』 を植え付けた画期的な法律だった。そして、現在の海外に賞賛されている日本人のモラルの高さに結びついている」 という評価になっているという話をよく目にする。
もちろん行き過ぎた部分もあっただろうし、当時の人たちにしてみれば、それまでの価値観を180度ひっくり返されるわけだから、“天下の悪法” と言われても仕方がなかったのだろう。
ひるがえって現在を見ると、『経済成長』、『グローバル化』 といった価値観が正しいものとされている。それを私は “経済絶対主義” と表現した。
しかし、国土が焼け野原となり、食うにも困る時代に有効だった価値観が、十分に社会資本が整備されて世界有数の経済大国となった時代にも有効とは限らないと思う。
とはいえ、国の在り方を根本的に変えるためには、システムを根本的に変えなくてはいけない。そして、今現在のシステムを規定している法律があり、その法律下で権力を持つ人たちがシステムを変えようとするとは到底思えない。
近年、日本が過去のしがらみとらわれずにシステムを変えられたのは、“太平洋戦争敗戦” と “明治維新” だ。どちらも当時の法律に縛られない 『超法規的なやり方』 で日本の古いシステムを刷新して、日本を変えてきた。
とすると、閉塞感ばかりが蔓延している今の日本を刷新するには、やはり “超法規的な力” が必要なのかもしれない。それがどんなものなのか、私には到底想像もつかないが。
欧米では、「一握りの人たちが富を独占している」 ことに対する抗議デモが起こっている。日本でも似たような小規模デモは起こっているようだ。しかし、デモが大規模となり、暴徒化するようになる前に、権力や富を握る人たちが自らが率先して国のために身を削っていってほしいのだが、九州電力の経営幹部のありよう等を見ていると、どうやらそのような事態は期待できそうにないのが残念で仕方がない。
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