カテゴリー「育児」の12件の記事

2008/10/30

親業

 いつものように NBonline の記事を読んでいたら、下の記事が目に付いた。

白河桃子の「“キャリモテ”の時代」
【第32回】「自然に出会って結婚」はもう無理?
女性が結婚できない3つの理由(その3)

 白河桃子
  NBonline [2008年10月29日]

 この記事の3ページ目に、たった一言だけ書かれていることが、私の興味を引いたのだ。

フランスは5人子供を生めば「親業」だけで食べていけるが、日本にはそんな制度はない。

 さっそくググってみると、こんな記事が見つかった。

もっと知りたい
フランスの少子化対策
 北海道新聞 [2006年8月12日]

 この記事によれば、

  • 子供が二人の家庭には、月117ユーロ(約1万5千円)の支給
  • 三人目以降は、子供一人につき、月150ユーロ(約2万円)の支給
  • 子供が三人以上の家庭には、交通や宿泊施設の割引
  • 公立ならば高校まで学費無料

といった、親に対する国の経済的支援が山のようにある。

 子供が5人いれば、月に7万5千円以上の支給がされるわけだから、たしかに 『“親業” が認められている』 という表現も、うなづける。

 私の以前からの持論は、

子供を社会に貢献できる大人に育てた度合いに応じて、国が老後の資金提供を行う

というものだ。

 老後に焦点を当てたのは、子育てをしている、まさにその時に経済支援を行うと、子供が “いる” 事を利用してビジネスに結びつける輩が出ると考えたからでもある。

 私の持論とは違うが、国がきちんと子育てを “立派な仕事” として支援しているフランスの姿勢は、国のあり方として正しいと考えずにはいられない。子育てが “ボランティア” や “趣味” の領域に入ってしまったのを放置している日本とは、比較にならない。

 総選挙において与党を有利にするためにしか見えない定率減税(=税金のばら撒き)の実施を、これまた “失敗” との評価が定着している 『地域振興券』 と同じ方法をとろうとしている今の日本の政治屋達には、フランスをはじめヨーロッパ各国が行っているような有効な少子化対策は、望めないだろう。

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2008/02/29

Millennial世代

 毎週 “CBSドキュメント” を見ている。これは、米国で放送されている “60 Minutes” を日本人向けに放送しているものだ。

 今週の話題の中に “Millennials Are Coming” があった。米国では、昨年11月に放送されており、インターネットで見ることができる。

 内容はというと、当ブログ一番人気の “シュガー社員” の話であった。多少の違いはあるものの、

  • ほめられるのが当たり前
  • 怒られるとすぐに会社を辞める
  • 何かにつけて親が立ち入ってくる

など、とにかく共通点が多い。シュガー社員以前に書いた “ほめるだけでいいのか?” の内容もしっかりと入っていた。曰く 「自分が大好きで、ほめ言葉だけを要求する」 若者ばかりだとか。

 親離れできないエピソードでは、大学の教授に学生が話しかけて 「成績に納得がいかないから、親と電話と話をしてくれ」 といったそうだ。Millennial世代は、学費を払っているんだから、A評価をもらうのは当然だと思っているらしい。今の日本風に言えば “モンスター・ステューデンツ” というところか。

 仕事や出世よりも、友人や家族を何より優先するのも Millennial世代の特長だとか。その原因は、親の世代が会社に人生のすべてを注いだのに、あっさりと解雇されたことを目の前で見ているからとか。この辺は、バブル後世代の日本の若者とよく似ている。

 そして何よりこのレポートを見て一番強く思ったことは、

「予想通り、今世紀後半は米国は勢いを失うな」

ということだ。もっとも、その頃には私は生きていないだろうから、あまり関係ないことなのだが。

 このような若者達を抱えて米国が失速をするならば、似たような若者を抱える日本も当然失速するするだろう。

 考えようによっては、馬車馬のように働かず、必要最低限の贅沢で十分という生活は、地球環境を維持していかなければいけないこれからの時代には、案外適応しているのかもしれない。

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2007/09/14

お金で解決して、それで済むのか

 最近、アリの巣観察 がすっかりお休みしている。飼っているアリたちは、現状で満足して、新しい行動を起こさなくなっているのでしょうがない。それでも、子供の夏休みの自由研究の題材になってくれたので、助かった。

 さて、自由研究といえば、子供の自由研究や学校のレポートを代行する商売が、繁盛しているらしい。

金で解決…親も子供も宿題丸投げ 代行業者が繁盛
 Sankei WEB [2007年9月1日]

 需要があるから供給する人たちがいるのは、資本主義では当然だ。安くない費用を使ってでも、子供に楽をさせたい、子供にいい成績を取らせたいと、親は課題を代行業者に任せる。日本はまだまだ裕福のようだ。

 月並みな意見になってしまうが、「自分がやってこそ価値のある宿題やレポートを、他人にやってもらい、結果だけをなにもわからずに受け取るのは、将来的に見れば、実に損をしている」 と、私は心のそこから思っている。

 代行業者を使う親の中には、「この子は、会社のオーナーを継ぐことが決まっているので、他人の成果を確認できれば、なにも困らない。」 などと、本気で思っている親がいそうで怖い。

 仮に、人を使う立場になることが確定していたとしても、使われる立場や、担当者が実際に行う作業や流れを自分で経験しなければ、おそらく、優れた経営者にはなれないだろう。小さい頃からなんでもやってもらってきた人間では、重役や社員にごまかされて、自分の会社を傾かせるのがオチである。

 私は大学時代に、宿題やレポートをかならず自分でやった。当たり前のことなのだが。しかし、周りには、優秀な学生からレポートを借りて、少しだけ手を加えて提出したり、ひどい学生になると、誤字脱字までそのまま書き打ちして出したりしていた。

 先生方も素人ではない。「レポートを読めば、それらを世代順に並べることが出来る」 と自慢げに話していた。(笑)  つまり、先生方にはすべてお見通しなのである。

 宿題やレポートをすべて自分の力でこなしたおかげで、私は学んだことをよく理解できたし、大雑把なことは今でも覚えている。

 その反面、日常生活について、私は周り、特に両親に、ほとんどなんでもやってもらっていた。高校、大学、就職までは、ほとんど学校が準備してくれた仕組みに乗ってきたと思う。そのために、いまだに周囲が何かしてくれるだろう、という “待ち” の気持ちが強い。

 その反省も含めて、自分の子供には、なんでも自分でやるように仕向けている。最初にやるときは、一緒にやる。そして、二回目以降は、極力自分ひとりでやらせるようにしている。

 それが将来、子供が社会に出て、一人で生活をする時に、きっと役に立つと信じている。何事も自分でできるという自信を持つことで、様々なチャンスに挑戦できる。そんな人間に成長して欲しいと願っている。そのためには、厳しいがために多少嫌われても仕方がないと、覚悟している。

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2007/08/24

赤ちゃんポストに対する役人のコメントに思う

赤ちゃんポスト:初の親引き取りに評価の声 国は依然慎重
  [毎日新聞 2007年8月23日]

 赤ちゃんポストに対して、私は個人的に “あり” だと思っている。追い詰められて短絡的になっている親から、子供を救う手段として有効だと思っているから。とはいえ、今回の主題は、赤ちゃんポストの是非ではない。

 今回、預けられた赤ちゃんが親元に戻った件についての役人のコメントが、いかにも役人が言いそうな内容だったので、一言言いたくなった。

元大阪市中央児童相談所長の津崎哲郎花園大教授は「両親が一時的に養育が難しい事情があって預けたとすれば、(赤ちゃんポストに預けるのでなく)乳児院に一時的に預ける制度もある。親元に戻った後も家族が問題を抱えているなら、病院と行政が連携して家族をフォローする必要がある」と提言した。

厚生労働省家庭福祉課の担当者は「子供は親が養育するのが一番望ましい」「子供を(ポストに)預けるということはあってはならず、行政などに相談してほしい」と従来の考えを繰り返し、運用状況の検証などにも消極的だ。

 どちらの言い分も、制度的、立場的には、間違ったことをいっていないのだろう。

 しかし、私にはどちらのコメントも、現実をまったく考慮していない、非常にむなしいコメントにしか映らなかった。切羽詰った親が、現実として役所に相談に行く行動を選択するだろうか?  役所に相談に行っても、どうせ行政の都合ばかりを押し付けられて、やれ書類だ、証明書だ、何日後にもう一度来い、などと、どうせ言われるに違いないと思うのではなかろうか。それは、虐待されている児童を保護する責任のある組織が、現状の法律や組織防衛、自己保身に縛られて、たびたび虐待による子供の死を防げないでいることからも、想像できてしまう。

 少なくともこの病院は、“子供だけは何とか助けたい” と思う親が、自分の都合だけで行動が起こせるシステムを準備しているという点で、十分に評価されてよいと思っている。(2chを見ると、赤ちゃんポストを悪用する話ばかりが出されているが、私には、子供を育てたことのない “ガキ” の戯れ言にしか見えない。)

 少子化対策などと、耳障りのいいアドバルーンは打ち上げているが、こういった担当者レベルのコメントを聞くと、本気で少子化対策に取り組んでいるとは、とうてい思えない。ゆとり教育 のような、子供を甘やかすことは出来ても、根本的な子供の命を護ることが出来ないようでは、やはりこの国は、人口減少を経て、緩やかな衰退に向かうしかなさそうである。

 「国が外敵に滅ぼされることは、ほとんどない。国はほとんどの場合、内部の権力腐敗によって滅びる」 という歴史的事実は、またもや繰り返されそうだ。

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2007/07/12

いい父親 vs わるい父親 【ドラゴンボール編】

 私も “ドラゴンボール” は大好きで、コミックも全巻そろえている。何年か毎に全巻読み直したりもしているほどだ。もっとも、アニメは好きになれなくてほとんど見ていない。

 そんな私も、この記事で指摘されるまで、“悟空” と “ベジータ” が、どういうタイプの父親なのかということは、あまり深く考えなかった。

幼児と討論! 悟空とベジータ、どっちが「悪い父」?
  Excite Bit コネタ [2006年11月10日]

 いわれてみれば、たしかに息子 “悟飯” の気持ちもわからずに “セル” との戦いを無理強いした悟空より、息子 “トランクス” がやられたときにセルに立ち向かったベジータのほうが、子供から見たら “いい父親” に見える。

 また、修行中に悟飯にちゃんとした説明をせずに、子供を不安にさせて、なおかつそれに気がつかない悟空は、たしかに “わるい父親” の代表のようにも見えてくる。現実ならば、子供が家庭内暴力を起こしたり、引きこもりになりかねない状態だ。

 ところで、“戦闘、鍛錬、訓練” を、会社での “仕事、残業、付き合い” に置き換えると、ほとんど家にいない悟空とベジータは、会社人間の父親達とダブらせているように見えてしまうのは、私の深読みのし過ぎか。ママたちに二人とも人気がないのは、こういう部分がダブって見えたりするからではないのか、などと考えたりする。

 最後に、自分の父親だったとしたらどうか、を考えてみた。結論は、「“クリリン” あたりが無難かな」 という身も蓋もない結論になった。(^_^;)

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余談:

 なにやら “ハゲ” がみょうに嫌われているようだ。しかし、ユル・ブリンナーテリー・サバラス のように、カッコイイ “ハゲ” もいるんだから、“ハゲ” というだけで、毛嫌いするのはどうかと思うんだよね。これもやたらとハゲをさげすむマスコミの悪影響なのか・・・。

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2007/05/29

不条理な要求

保護者から学校への「イチャモン」にはワケがある
  夕刊フジ BLOG  [2007年5月27日]

 最近、テレビや新聞などでもこの問題、学校や先生への不条理な要求、をよく耳にする。

  • 少子化や地域社会の崩壊、保護者の孤立化などで、親は子育てに関する悩みを誰にも打ち明けられず、「この子を守るのは自分しかいない」と思いこんで文句を言う。
  • 子供がトラブルを起こすと、育てた親である自分が非難されたと思いこみ、逆ギレ的な言葉が出てしまう。

 私も同じような理由を考えていた。実際、「自分の子供を守るのは、自分(および配偶者)しかいない」 と、私も考えている。(といっても、何かにつけて学校に怒鳴り込んだり、要求したりはしていない。) また、「子供の悪事は親の責任」 という考えが何かにつけて強調されるため、「子供への叱責は親である自分への非難・誹謗・中傷」 と思い込んで、過剰に反応する人が増えている、という話も、私には同意できる話だ。

 私が問題だと思うのは、一部の過剰反応をする親達によって、先生達の貴重な時間が無駄に使われていくことだ。ただでさえ厳しいとされる先生達の労働条件をさらに悪化させているとしか思えない。

 しかも、今の教育制度は、先生達個人個人の努力を前提にしているとしか思えない部分が多い。なにかにつけて私の持論を出して申し訳ないが、「人は現状のシステムにおいて、自分が利益を得る、もしくは、損をしない行動を取る」 と私は信じている。つまり、先生達個人個人の努力に依存しているようなシステムでは、やはり将来的に改善するとは思えない。改善するためには、システムの変更が必要なのだ。

 そうすると、“教育制度改革” という話になるが、現安部政権が行おうとしている 教育制度改革 はどうも信用できない。少なくとも報道される範囲では胡散臭い。なんというか、戦前の全体主義への回帰を目指しているような、薄ら寒くなる感じを受けるのだ。

 とはいえ、私も教育制度改革について具体的な妙案を持っているわけではない。私が思っているのは、

  • 教師の地位向上 (給与面、労働時間、など)
  • 学力だけに偏らない教師の評価 (生徒からの評価、地域からの評価、など)
  • メンタルケアの充実 (カウンセリングの充実、など)
  • 管理職への専門教育 (組織運営のための知識、など)

といった、だれもが思いつきそうなものしかない。しかし、誰もが思いつきそうだからこそ、本質的なものだとも思っている。

 パソコンのソフトウェアの仕様を作るのも、プログラムを書いて実際に組み上げるのも、専門家の仕事だ。ユーザーがいくらあれこれ良いアイデアや要望を出したところで、それがそのままソフトウェアにできるわけではない。同じように、教育制度を組み上げる専門家とそれを運営する専門家がいて、今後の日本の教育界が今よりもよくなっていくことを、子供を持つ親としては切に願うばかりである。

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2007/03/17

シュガー社員 ~溶けゆく日本人~

 “シュガー社員” - 別に “ウェディング・ベル” を歌う社員のことではない。(って、このネタがわかる人は少ないだろうなと思いつつも書いてしまうオヤジな私である。)

 「シュガー社員」-。札幌市の社会保険労務士事務所所長、田北百樹子(ゆきこ)さんは、過保護に育てられ自立心に乏しい社員をそう呼ぶ。「甘い=砂糖」の意味を込めたネーミングだ。

【溶けゆく日本人】シュガー社員 ツケを払うのは会社
Sankei WEB (2007/3/14)
リンク切れにつき、社会保険労務士事務所所長 田北百樹子氏のページを新たにリンク

【溶けゆく日本人】シュガー社員 ツケを払うのは会社
ふたたびリンク切れ

シュガー社員が会社を溶かす
田北百樹子(社会保険労務士)

(2008年5月14日追加)

 私が以前に記事にした “ほめられないと働かない若者たち” が、今はどうやらさらに進化(?)していたようだ。

「繁忙期に残業すると、『なぜ残業させるのか』と親から電話がくる。中小企業では、親が会社に文句をつけてくるのも驚くべきことではないのかもしれません」

 私が最初に就職した巨大企業の入社式に母親と一緒に来ている新入社員を見かけた。1989年のことだ。ちなみに、その入社式は、大学卒以上の新入社員のみの入社式だった。

ある機械販売会社に勤める20代の女性社員は、あまりに仕事の進みが遅く、ミスも多かったため、上司から時間の使い方を注意された。

「親にさえ叱(しか)られたことがない」

女性社員は急に怒り出し、翌日から出社しなくなった。

 1979年に放送された “機動戦士ガンダム” で、主人公のアムロが乗っている戦艦の艦長に殴られて、

 「オヤジにもぶたれたことないのにーーーーー」

と言う場面があった。その当時は、甘ったれ小僧のうまい表現であった。しかし今リアルタイムに放送されたら、「何が変なの?」 と思う視聴者が多くいるということか。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

 上の記事は、企業に同情的な書き方になっている。しかしそういう状況を作り上げたのは、高度経済成長以後の企業と官僚なのではないかと、私は言いたい。

 働き盛りの男を会社の労働力として縛りつけたい企業。そのために、妻を専業主婦として家庭にいさせるための制度を作った官僚。結果として、子供から父親を取り上げて、多くの擬似的な母子家庭を生み出してきた。子育てが趣味の領域になってしまうようなサラリーマン家庭を、企業のために大量に作り出す社会制度。家庭に残された妻は、子育てに唯一の生きがいを見いだす。そして、子供をがんじがらめに縛り付けるか、子供の思い通りに甘やかすかの二者択一になってしまう。過去何十年かを振り返ってみて、私はそう思っている。

 社会問題が話題になると、政治屋や高級官僚、大企業経営者たちは、それらを個人の問題にしようとする。「ニートは若者の怠け癖」、「少子化は女性がわがままになったから」などなど。
 しかし私は、社会問題はすべて社会システムに起因する問題だと考えている。個人個人は現在の社会システムの中で、自分が一番得をする、もしくは損をしない行動をしているに過ぎない。
 とはいえ、政治屋を選んでいるのは市民。既存の行政システムを肯定しているのも市民。極論からいってしまえば、現在のシステムを支持しているのも市民、ということになってしまう。民主主義においては、システムが変わるためには多大の時間と労力が必要。それが最悪の社会システムを独裁者に導入させないための民主主義のよい点である。その一方で民主主義には、

「虚偽の情報に踊らされた一般投資家がいまだに損失を抱え、刑事責任を追及された張本人には一生遊んで暮らせる金が残っている。これが日本の現状です」
 「時代の寵児」の行方 3・16堀江被告判決(4)勝者と敗者
  ITmedia News (2007年3月9日)

といったシステムが、早急に改善できないという問題もある。

 とりあえず、問題は認識され、変化に向けて動き出そうとしている。私は、私が正しいと思う変化をただ支持し続けるだけである。

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2007/02/23

日本の地域社会は子供を許容しなくなってきたのか

 学校からお知らせがきた。

 『通学路での子供たちの行儀が悪く、学校に苦情の電話が多くかかってくる』 ということだった。『学校周辺地域の住民の方の迷惑にならないように、家庭で十分な指導をしてほしい』、という内容だった。

 言っていることは、間違っていないと思う。地域でお互いに平穏に生活していくためには、それなりの配慮が必要である。子供であってもそういった配慮を少しずつ身につけていく必要がある。

 私が気になったのは、子供が多少ハメをはずした行動をしたからといって、それをいちいち学校に苦情を言うことが当たり前になってしまった地域社会に対してである。苦情の内容は、「歩道いっぱいになって歩いていた」、「大声で騒いで歩いていた」、「歩道を走っていた子供たちとぶつかりそうになった」 といった、子供ならどちらかと言えば仕方のない行動である。通報した本人たちも子供のころはおそらく同じようなことをしていたと思う。しかし、大人になると自分が子供のときのことを忘れて、子供が道路ではしゃいでいるのを見て、不愉快になり、学校に苦情の電話をかける。

 迷惑だと思ったら、子供たちを直接注意すればよい。たしかに、知らない子供を注意すれば、“変な人” 扱いされてしまうような世の中になってしまったという問題もある。しかし、わざわざ学校に自分の不満の解消を求めるところに、私は今の日本の地域社会が、子供の存在を許容しなくなっているように感じた。

 地域社会の空気が、規律を乱す行動をとる者達を、匿名で排除しようとしている。子供も例外ではない。一方、子供はそんな大人の規律など知らずに、自由に行動する。すると、その地域社会は子供を邪魔の物として排除しようとする力が働いてくる。

 子供の存在がなんとなく邪魔な空気ができてしまうと、子供を抱えている家族は、当然その地域で居心地が悪くなる。子供がなにかするたびに、親が地域社会からいろいろと苦情を言われるようにもなるだろう。

 そんな地域社会の空気をずっと見ていれば、若い世代は、「自分は子供をもちたくない」 と思うようになって当然である。かくして、少子化はいっそう進んでいく。

 私が住んでいる東京は、特別なのかもしれない。東京では、隣近所で深いつながりをもたず、なるべく干渉しあわずに生活をすることが暗黙のルールとなっている。そして、自分の安定した生活を脅かす見ず知らずの子供を、“自分の邪魔をする存在”として見てしまうような気がしてしょうがない。

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2007/01/27

ほめるだけでいいのか?

 最近は育児に関して、

「しかってはいけない。とにかく、ほめろ。ほめて育てろ。」

というような話を聞くことが多い気がする。しかし、そんな単純な話ばかりを聞いていると、ついつい 「それは違うだろう」 と、私の中の天邪鬼が顔を出してくる。

 実際、前の会社の友人であるマネージャーが、

「最近の若い世代に、軽く叱責されただけでひどく落ち込んで、仕事ができなくなる人たちがいる。そういう人たちは、やった仕事をすべてほめられないと仕事が続かない。」

とぼやいていた。私はこれを、“ほめられるだけで育てられた後遺症” だと考えた。

 物心つくころから何でもほめられる。なにをやってもほめられる。おそらく、やったことがうまくいかなくても、“やった” ということだけでほめられたのだろう。そうやって何年も成長していけば、やがて、“なにをやってもほめられることが当たり前” と思い込むようになるのだろう。確かに、それが死ぬまで続くのならば、問題はない。

 しかし、現実社会はそうは行かない。いくらがんばろうが、努力しようが、成果を出せなければ、ほめられることはない。成果を出しても、「それは当たり前のこと」 としてほめられないこともよくあること。

 そんな現実社会に、“なにをやってもほめられる” と信じている人間がやっていけるか? おそらくムリだと、私は考える。“三つ子の魂百まで” ではないが、子供の頃に染み付いた考えというものは、そう簡単に変わるものではない。私も、親に身の回りのことずっとを何でもしてもらっていたため、人が何でもお膳立てをそろえてくれるという考えがなかなかとれなかった。それで、社会人になってからずいぶんと苦労をしたものである。

 私の子供には、小さい頃から少しずつ現実社会の厳しさを学んでいって欲しいと思っている。

  • いくらがんばっても、それだけでは他人に認められないこともある。
  • 自分がやりたいことをしただけでは、他人はほめてはくれない。
  • 他人にほめられようと思ったら、他人がうれしいをしなければいけない。

などなど。小さい子供には確かに厳しいことだと思っている。私としては、実際にそういう現場に向き合ったときに、一刻も早くその状況に適応して先に進んで欲しいと思っている。そのことが結果として、子供の幸せな人生につながっていくと信じているから。

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2006/11/09

いじめによる自殺についての、とあるテレビ報道について思う

 今回の話題も書こうか書くまいか少し悩んだ。やはり微妙な問題について書こうとしているからである。読む人によっては、私が予想していなかったような激しい反感を感じるのではないかと心配している。

 岐阜県で中学二年生の女生徒が自殺をした。その報道を、11月8日朝のテレビワイドショーでやっているのを見た。自殺した女生徒の父親がインタビューを受けていた。
ワイドショーの報道によれば、

・ 女生徒は明るく、活発な性格であった。
・ 父親からは、いじめをするな、いじめを見逃すなと常日頃から言われていた。
・ 実際、女生徒はいじめられていた他の生徒をかばうなどの行動をしていた。
・ 遺書らしき手紙が残されており、いじめていたと思われる複数の生徒の名前が書かれていた。
・ しかし手紙には、悪口や恨み、つらみといった文言は一切かかれていなかった。

ということであった。

 まず言いたいのは、いじめはどんな理由があろうとしてはいけない。皆が安心して生活するためにいじめは必要のないものである。たまに 「いじめられる側にも問題がある」 などと知識人ぶったコメンテータがいるが、とんでもない話である。いじめられる側に責任はない。ただ、いじめられたときの対処法は知っておくべきだし、教えるべきものである。対処法は何も対決するだけではない。逃げることも重要な対処法である。よく少年マンガで 「男には負けるとわかっていてもたたかわなければいけないときがあるんだ!」 などとふざけたことを主人公にしゃべらせているが、とんでもないことである。負けるとわかっているなら、負けない準備をしたり、闘わずにすむ方法を考えるべきである。草食動物だって、肉食動物に狙われたらまず逃げるではないか。負ければ差し出さなければいけないのは自分の命なのである。
そして、自殺した女生徒の父親の教えである 「いじめを見逃すな」 も正しいと思う。賞賛されても非難されるべきものではない、と私も思う。

 それをふまえたうえでの話である。
ワイドショーでは、

「正義感の強い女生徒は、いじめを見過ごせずにかばったため、自分自身がいじめの対象となってしまった。」
「自殺をするときも、遺書らしきものに悪口や恨みを一言も書かず立派だった。」
「父親の言いつけを立派に守り、父親にいじめられているそぶりも見せなかった。」

という “シナリオ” にそって報道されているように見えた。そして、その報道のされ方に、私は大きな違和感を感じた。かなり極端な言い方になってしまうが、戦前の軍隊が行っていた 「国のために命をささげるのはもっとも尊い行為である。」 という扇動と同じような臭いがしたのである。

 繰り返しになるが、女生徒に非はないし、その父親の行動も立派である。
しかし、女生徒が自殺をして今はこの世にいないのが事実である。最後の選択肢を選んでしまったということは、やはり何らかの問題があったとしか、私には思えない。

 私が思うに、父親や家族、教師、学校など、周りの環境が彼女から自殺以外の選択肢を奪っていったのではないかと。
友達の悪口を言ってもよかった、いじめられるのがイヤだといって学校を休んでもよかった、誰かに助けて欲しいと訴えてもよかった、と私は思うのである。おそらく本人の性格とそれまで受けた教えによって、そういった自分の弱さをみせるような選択肢は取れなくなってしまったのではないかと想像している。他人に自分がいじめられていると思われるくらいなら死んでしまったほうがまし、と思い込んだとしても、この時期の少女であれば少しも不思議ではない。

 しつこいようであるが、私は、女生徒やその父親、いじめた側の生徒、教師や校長といった学校関係者を非難するつもりでこれを書いてるわけではない。
ただ、私も子供を持つ身として、自分はこのような状況に自分の子供を追い込んでいないか、自分自身を見つめているのである。子供を、私自身と同じレベルの処理能力で考えてしまうことがよくある。しかし、経験や知識という点だけでも、子供は私に到底及ばない。そして、子供に 「強くあれ」 と教えると共に、“逃げ帰る” ことが許容されていることを子供が感じさせたいと思っている。

 最後に、興味深い論文を見つけたので紹介しておく。私には共感できる部分が多かった。

「いじめ自殺とマスコミ報道」  安田真人

最後の “今後の課題” に書かれていることは、まさに私が感じていることであり、このブログで書いてきたことでもある。

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