カテゴリー「学問・資格」の12件の記事

2008/12/30

水星を見た

 私も小学生の頃は、星を観察するのが好きだった。月に1度は市営のプラネタリウムを見にいったものだった。

 そして中学生のとき、通っていた学校が校舎を建て直した際に、屋上に30cm級の大型天体望遠鏡を設置した。ドームまで設置してある本格的なやつだ。

 担任の先生が理科の先生で天体望遠鏡の管理者だったこともあり、何かとお願いしては使わせてもらった。太陽の黒点観察や夕方の金星観察など。夏休みには泊りがけで観察したこともあった。

 ところが、そんな天体観測が大好きだった時、見たいと思っていてとうとう見れなかった星があった。それが “水星” だった。

 金星は、比較的高い位置まで登り、かなり明るいこともあって、見つけやすい。それに比べると、水星はあまり高い位置に上らないため、地平線付近の雲に隠れやすい等で、見える機会がかなり限られる。

 さて、私の子供も学校で星のことを勉強する歳となり、最近毎夕、星を観察している。

 私も昔を思い出しながら一緒に観察をしていると、南西の空に明るく “宵の明星” が輝いていた。さらに西のほうを見ると、細い弓なりの月とその上に別な明るい星が見えた。もう少し暗くなると、月の下側にもう一つ明るい星が瞬いてた。

 「これは、もしや?」 と思い、さっそくインターネットで調べてみた。

 最初に見つけたのは、金星と木星の接近のニュースだった。どうやら、月の上の明るい星は木星のようだ。

 木星は何度となく観察しているし、中学生の時は大望遠鏡で大赤斑も観察している。ちなみに、土星の輪も大望遠鏡で観察済みだ。

 ところが、月の下の星の情報がない。そこでふと思いついて、星図情報を検索してみた。

 すると、フリーの星図表示ソフトが見つかった。

Stella Theater Lite Ver2.66

 すぐにダウンロードをして、インストールした。使い方は簡単で、すぐにわかった。表示される星図も、既定値は “東京”+“現在時間” だった。

 そこで、西の空を見てみると、月と木星があり、その下に・・・、やっぱり “水星” があった。これでまた、忘れていた子供の頃の夢がまた一つ、思いがけない形でかなった。

 セミの羽化といい、女王アリの捕獲といい、子供のときに見たかったりやりたかったりしたことが、自分の子供をきっかけにして、何十年も経ってから実現することになるとは、なんとも不思議な感覚である。

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2008/10/11

ノーベル賞受賞報道から思うこと

伊東 乾の「常識の源流探訪」
日本にノーベル賞が来た理由
幻の物理学賞と坂田昌一・戸塚洋二の死

 伊東 乾
  NBonline [2008年10月10日]

 賞を取ったことは素晴らしいことだし、それにふさわしい業績を上げたからこその受賞なのだから、受賞に関しては私も何も言うことはない。

 ただ、ここ数日、ノーベル賞を取った人たちが、やたらとテレビ番組で多く取り上げられている。あいかわらずの、マスコミによる横並び報道に、うんざりした思いでそれらを見させられている。

 上記の記事でも書かれていることだが、日本はやたらとノーベル賞を特別視する傾向にあるようだ。以前読んだ別な記事には、「今は、ノーベル賞よりも権威のある賞も、賞金が高額な賞もいくらでもある。」 と書いてあった。

 また、ノーベル賞のおひざもとのノルウェーやスウェーデンでは、テレビ番組などでよくノーベル賞の選考会がおちょくられて、パロディーにされているという話も見聞きしたことがある。ヨーロッパの人たちにとっては、日本人ほどノーベル賞を特別視していないということらしい。

 そして、上記の記事で思い出したもう一つの問題は、

国内問題山積のまま、海外に出て行った人に何か賞なぞが出ると、すぐに「日本が、日本人が」と騒ぐ。

という部分に代表されるような、画期的なことを積極的に評価しようとしない日本社会の体質だ。その体質が、近世以後のものなのか、はるか大昔からのものなのかは、私にはわからない。しかし、私が物心ついた頃には、「出る杭は打たれる」、「前例踏襲」、「異質は排除する」 といった考えが、日本においては常識になっていた。

 私もどちらかというと “異質” の方に分類される。成人してから同窓会で再会した小学生のときの担任の先生に、「お前は人一倍変わってたからな」 と言われ、大学生のときに途中から海外留学に行ってしまった指導教官から手紙で 「変わり者が多い学年の中でも特に変わり者の○○君へ」 と名指しで言われたほどだ。

 そんな私の性格・気質のせいなのだろう、望んで入社した日本有数の大企業では、2年しかいられなかった。周囲は扱いにくそうだったし、私の居心地も悪かった。

 私がそれなりの業績を上げられた(と、少なくとも自分では思っている。)場所は、結局転職後の米国資本の企業だった。特に、米国で現地の人たちと働いている時は、自分が驚くくらいに、自分を高く評価してくれた。

 そんな経験もあってか、『日本を飛び出して欧米で活躍』 というニュースにはぜんぜん違和感を感じない。

 異質なものを排除して、均質な状態で安定したモノ作りを行うことも、重要なことだ。そうやって、明治維新以降と敗戦後に、日本は大きく成長することが出来た。

 しかし最近は、安定というよりむしろ “停滞” とい言葉がぴったり来るような状況のように、私には思える。

 そういう状況においては、異質なもの “異端者” が社会の変革を促して、新たな成長と新たな安定をもたらすことが期待される。幕末の時のように。

 ただ、変革の時期はきわめて短く、異端者たちも、たいていは不遇な最後を遂げていることが、私にとってはあまりうれしくないところでもある。

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2008/10/03

算数が解けない思考とは

 最近、テレビ番組のバラエティでは、“おバカ” を売りにしているタレントが人気だ。どこかの記事で、「最近のプロデューサーの一番重要な仕事は、おバカキャラのスケジュールを抑えることだ。」 という記述を見たことがあるくらいだ。そのくらい、おバカキャラを出演させるだけで視聴率が稼げるらしい。

 私自身は、おバカを売りにしているタレントは好きではないのだが、ご他聞に洩れず私の子供もおバカキャラが大好きだ。先日も 『ヘキサゴン スペシャル』 なる番組を夢中で見ていた。

 その時は、たまたま子供と一緒になんとなく見ていた。

 すると、「東京タワーとCDケース10万枚を比べると、どちらがどれだけ高いか」 という問題を、おバカキャラたちにやらせていた。

 私は、間違った解答をしたタレントの解答の手順を聞いて、「あっ、算数・数学が苦手な人は、こういう思考をするんだ」 という点に気がついて、ちょっとだけ感動した。ちなみに、その間違ったタレントは “現役女子大生” という肩書きだった。感動と同時に、あらためて日本の将来がちょっぴり心配になったの内緒だ。

 さて、私がどういうことに気がついて、感動したかといえば、

「二つの数値を比較して、桁が一致しなかったから “なんとなく” 片方に0を増やした」

という自らの解説だった。

 数学や科学、事件の推理 には、この “なんとなく” というのは最もやっていけないことだ。

 余談になるが今週のCBSドキュメントでは、殺人の冤罪で17歳のときに刑務所に入れられ17年後に無罪になる話を放送していた。冤罪の原因になったのが、担当していた刑事の “思い込み・決め付け” によるものだったのは、インタビューを見れば明らかだった。「両親が殺されたのに冷静だったから、こいつが犯人に間違いない。」 (余談おわり)

 数学や科学は、事件の推理もそうなのだが、

一見すると奇妙に見えることでも、そこにいたるまでの道筋が論理的で矛盾がなければ、その奇妙に見えることは真実である。

ということが成り立つ。

 『奇妙さが不安になり信じられない』 か 『そこに至るまでの論理を信じる』 かによって、数学や科学とうまく付き合えるか・付き合えないかが決まってくる。

 おバカキャラがそこまで計算して “演じている” とすれば、それはすごいことだと思うのだけれど、中には本当に地で 『とんでも解答』 をするタレントもいるので、私にはとても見られたものではない。

 私にできることといえば、そういった “非論理的思考” の問題点を子供にちゃんと説明をして、子供には論理的思考が身につくように手助けすることだけだ。

 なにしろ、(一般に)子供は 『バカ』 が大好きなのだから。私も子供の頃は、ドリフターズの “8時だよ!全員集合!!” を毎週食い入るように見ていた。

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2007/12/22

技能オリンピックの意義がわからない

技能オリンピック、日本はトップだったけど
 橋本久義
  NBonline [2007年12月10日]

 私も技能オリンピックでメダルを取った人たちの取材番組を少しだけ見た。あくまで私の邪推だが、「メダルを取れなかった人たちの取材もしていたが、“大人の事情” で放送しなかったじゃないのか」 、と考えているというのは秘密だ。

 さて、上記の記事を読む限りにおいては、技能オリンピック (正式には、“国際技能競技大会” というらしい) に、私は意義を見出せなかった。

 Wikipedia によれば、「参加国の職業訓練の振興と参加者の国際親善・交流を目的としている」 らしい。「参加者の国際親善・交流」 というのは、まあ、意味があるだろう。しかし、「参加国の職業訓練の振興」 というのは、いささか疑問だ。

 記事に書いてあるとおり、競技内容と、今現在現場で使われている技術に大きな乖離があるならば、「職業訓練の振興」 につながるのか、はなはだ疑問だ。

 22歳という年齢制限も私にはよくわからない。本当に生産技術の高さを競うのであれば、年齢は関係ないはずだ。たとえば、深絞り技術ならば、ロケットの噴射口をほとんど作っている日本に勝る国はない。

 しかし今のままでは、競技者の育成にお金を回せる大企業の名誉や宣伝のためのだけのものとしか思えない。もっとも、「それが最初から目的だ」 といわれてしまえば、それまでなのだが……。

 技能オリンピックで金メダルを取れるだけの能力があるならば、実際の生産現場においても、高い能力を発揮できる可能性が高いと思う。そして、生産現場で能力を発揮したほうが社会に対する貢献度も多いはずだ。そう考えると、単に競技のためだけの技術に、5年も6年も能力を使っているのは、「モッタイナイ」 と思えて仕方がない。

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2007/10/07

「増加は不要」 ということは、「増加が必要」ということ

司法試験合格「増加は不要」=業務拡大悲観的、危機感浮き彫り-弁護士アンケート
 時事通信社 [2007年10月6日]

 “弁護士” の増加の是非を、当の “弁護士” にたずねたら、そりゃ 『いらない』 と答えるだろう。こんなアンケートに、何の意味があるのだろう。私には、理解できない。

 「あなたの競争相手が増えますけど、賛成ですか?」 と聞かれたら、そりゃ、弁護士でなくとも 『いらない』 と答えるでしょう。自分の仕事および収入が減る可能性が高くなるのだから。

 往々にして、関係者が反対するものは、実行したほうがいい場合が多い。このケースでも、反対する弁護士達が多いほど、もっと弁護士を増やしたほうがよい、と私には感じた。

 弁護士本人達が、「国民生活に悪い影響を与える」 と考えるほど、悪い影響が出るとも思えない。多少の副作用は出るだろうが、全体としてみれば、優秀な弁護士が増えて、適正の低い弁護士が淘汰されていることになるだろうと、私は予想している。

 逆に、役人と政治屋は、もっと減らすべきだとも思っている。

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2007/09/14

お金で解決して、それで済むのか

 最近、アリの巣観察 がすっかりお休みしている。飼っているアリたちは、現状で満足して、新しい行動を起こさなくなっているのでしょうがない。それでも、子供の夏休みの自由研究の題材になってくれたので、助かった。

 さて、自由研究といえば、子供の自由研究や学校のレポートを代行する商売が、繁盛しているらしい。

金で解決…親も子供も宿題丸投げ 代行業者が繁盛
 Sankei WEB [2007年9月1日]

 需要があるから供給する人たちがいるのは、資本主義では当然だ。安くない費用を使ってでも、子供に楽をさせたい、子供にいい成績を取らせたいと、親は課題を代行業者に任せる。日本はまだまだ裕福のようだ。

 月並みな意見になってしまうが、「自分がやってこそ価値のある宿題やレポートを、他人にやってもらい、結果だけをなにもわからずに受け取るのは、将来的に見れば、実に損をしている」 と、私は心のそこから思っている。

 代行業者を使う親の中には、「この子は、会社のオーナーを継ぐことが決まっているので、他人の成果を確認できれば、なにも困らない。」 などと、本気で思っている親がいそうで怖い。

 仮に、人を使う立場になることが確定していたとしても、使われる立場や、担当者が実際に行う作業や流れを自分で経験しなければ、おそらく、優れた経営者にはなれないだろう。小さい頃からなんでもやってもらってきた人間では、重役や社員にごまかされて、自分の会社を傾かせるのがオチである。

 私は大学時代に、宿題やレポートをかならず自分でやった。当たり前のことなのだが。しかし、周りには、優秀な学生からレポートを借りて、少しだけ手を加えて提出したり、ひどい学生になると、誤字脱字までそのまま書き打ちして出したりしていた。

 先生方も素人ではない。「レポートを読めば、それらを世代順に並べることが出来る」 と自慢げに話していた。(笑)  つまり、先生方にはすべてお見通しなのである。

 宿題やレポートをすべて自分の力でこなしたおかげで、私は学んだことをよく理解できたし、大雑把なことは今でも覚えている。

 その反面、日常生活について、私は周り、特に両親に、ほとんどなんでもやってもらっていた。高校、大学、就職までは、ほとんど学校が準備してくれた仕組みに乗ってきたと思う。そのために、いまだに周囲が何かしてくれるだろう、という “待ち” の気持ちが強い。

 その反省も含めて、自分の子供には、なんでも自分でやるように仕向けている。最初にやるときは、一緒にやる。そして、二回目以降は、極力自分ひとりでやらせるようにしている。

 それが将来、子供が社会に出て、一人で生活をする時に、きっと役に立つと信じている。何事も自分でできるという自信を持つことで、様々なチャンスに挑戦できる。そんな人間に成長して欲しいと願っている。そのためには、厳しいがために多少嫌われても仕方がないと、覚悟している。

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2007/05/24

【記憶に残る数学問題 1】 タバコを合計何回吸えるか?(解答編)

 前日の問題の解答である。まだ、問題を読んでいない場合は、先にこちらの問題から読んでいただきたい。

 さて解答だが、個人的には二つあると、私は思っている。私がこの問題を知ったときの正解は、後者の解答だと書かれていた。しかしながら、一般的な思考であれば、私は前者であっても正しい答えだと思っている。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

解答 1: (普通の人の解答)

  1. まず、一箱20本のタバコを全部吸う。(吸った回数:20回、吸殻20個)
  2. 吸殻20個のうち18個から6本のタバコを作って吸う。(吸った回数:26回、吸殻2+6個)
  3. 吸殻8個のうち6個から2本のタバコを作って吸う。(吸った回数:28回、吸殻2+2個)
  4. 吸殻4個のうち3個から1本のタバコを吸って吸う。(吸った回数:29回、吸殻1+1個)

 結果、

“タバコを29回吸うことができて、吸殻が2個残る”

という答えも、私は正解だと思っている。この考え方が一番自然だと思うからだ。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

解答 2: (ちょっと変わった人の解答)

“タバコを29回吸うことができて、吸殻が2個残る”

までは、解答 1 と同じだ。

 さらにその後に、誰か別な人から “吸殻を1個” 借りてくる。すると、吸殻は3個となり、1本タバコが作れる。これを吸うと、

“タバコを30回吸うことができる”

となる。

 そして、最後のタバコを吸うと、“吸殻が1個” できるので、これを借りた人に返せば、差し引きゼロとなる。

 というのが、私が読んだ正解だった。たしかに、うまい解決策だと感心させられたが、同時に何か、うまくごまかされたような気がしたのも事実だ。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

解答 3: (数学オタクによる解答)

 高校生時代の先輩に、この問題を出したことがあった。その先輩は、数学オタクだった。そして、その先輩が出した答えが、この画期的な解答だった。この問題が忘れられない問題となったのも、この解答を示されたためだ。

  1. 最初に20本
  2. 次は20本の1/3
  3. 三回目は20本の1/3の1/3
  4. ・・・

という形で無限にタバコを吸っていけば、一箱すべてのタバコを吸った回数を計算できると、その先輩は考えた。

 これは、初項が 20 で、等比が 1/3 の “等比級数” の無限和を計算することに等しい。初項 a、等比 r で -1< r <1 の場合、

Shiki00

が成り立つ。a=20、r=1/3 なので、これを代入すると、

Shiki01 Shiki02_1

となる。これを計算すると、

Shiki03

となり、なんと “解答 2” と同じ “30” となる。

 この一件で、数学の奥の深さを教えられたような気がした15の春だった。

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2007/05/23

【記憶に残る数学問題 1】 タバコを合計何回吸えるか?

 私も人並みに、高校、大学と受験を経験している。その時代は、様々な問題集を解いたり、模擬試験を受けたり、基礎学問に関する本を読んだりした。そんな経験の中で、とても印象に残る、いつまでも忘れることのできない問題というものがある。

 もっとも、記憶に残る問題というのは、たいてい雑学に近い本に書かれていたような気がする。純粋に受験対策の問題というのは、無味乾燥で記憶に残らないものだ。

 ということで、第1回目。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

問題:

 一箱 20本入りのタバコがあったとする。

 タバコ1本を完全に吸うことはできない。かならず 1/3 が吸殻として残る。

 吸殻 3つ で、タバコ1本を再生することができる。

 再生したタバコを吸うと、また、吸殻が残る。

 このようにして、タバコを吸っては、吸殻を集める。集めた吸殻からタバコを再生して、また吸う。これを繰り返すと、一箱 20本入りのタバコ一箱で、タバコを最大何回吸えるか?

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

というのが今日の問題。

 答えは、明日の記事で発表する予定。

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2007/05/09

早期英語教育もいいけれど・・・

大丈夫か日本語:
「骨が折れる仕事」は「骨折する仕事」 中学生レベルの大学生

  ITmedia [産経新聞]  2007年05月01日

 私も常々 “早期英語教育” ばかりがマスコミで取り上げられることが、不満であった。たしかに、英語はできないよりできたほうがいいとは思う。しかしながら、“英語ができなければ仕事ができない” とでも思わせるような報道のされ方、あるいは認識のされ方は、やはりなにかおかしいと思う。

 たしかに、担当業務は優秀にこなすが英語が苦手なために会社から軽んじられた人、をみたことがある。逆に、実務はさっぱりなのに英語が得意というだけで評価されていた人、もみてきた。しかしそれらは一時的なものであり、結果的には実務を優秀にこなす人間が生き残っていった。

 私の場合は、幸いにして “英語ができない” という理由だけで低く評価されることはなかった。ろくに英会話もできないうちにアメリカへ出向させられた。出向当初は、マネージャーやチームのメンバーとの意思疎通さえままならなかったものだ。それでも、実務できちんと成績を残すことで、マネージャーにも評価してもらい、メンバーたちにも認めてもらえた。

 「英語であれ日本語であれ、所詮コミュニケーションのための道具でしかない」 というのが私の持論だ。つまり、意思疎通ができなければ、その言語を話していることにならないというということをいいたい。
(もちろん、言語が文化であり芸術である、という考えも真実であり、それを否定するつもりはない。単に私が文学や書道などの芸術を理解する能力に欠けているだけの話だ。)

 私のカミさんも日本語能力に若干の問題を抱えている。(^_^;)
「地図マップ貸して」といったわけのわからん単語を使ったり、「あの店はまずかった。とてもじゃないが『ひどいものじゃない』」(本人は、『ひどいものだった』もしくは『食えたものじゃない』と言いたかったらしい) といった、意味がまったく異なる単語の使い方をしてくる。そのたびに私は脳内で翻訳装置を動かして理解しなければいけない。
(ちなみにカミさんは、英語検定試験では高得点を取れるくらいに優秀な “英語使い” だ。)

 ので、最初に紹介をした記事にもあるように、私ももっと意思疎通のできる日本語教育を先に充実させるべきだと思っている。国語のマークシートテストで高得点を出せたり、英単語を多く知っていたりするよりも、自分の考えを正しく相手に理解してもらう技術は、日常生活においても、社会に出て働くにしても、極めて重要な技術である。本人にとっても重要であり、一緒に生活をする人や働く人にとっても重要だ。

 私は正しく伝える訓練を、大学生、大学院生のときに徹底的にさせられた。そのときに指導教官であった助手の言葉を今でも覚えている。

「論文は文学的である必要はない。仮に日本語として多少違和感のある表現であったとしても、100人が論文を読んで、その100人とも同じことを理解する表現であれば、学術論文ではその表現は正しい。」

私はこのことを常に念頭に置きながら、会話をしたり、文章を書いたりしている。

(繰り返しになるが、けっして “文学を否定しているわけではない”。文学も大切。そして日常生活においては、正しく相手に伝える言葉使いが重要。)

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2006/09/26

百聞は一見に如かず

 私がユーザビリティーテストを長くやってきて実感したことの話である。
ここでも“ユーザビリティーテスト”とは、開発しているもしくは開発が済んだソフトウェアを個室で使ってもらって、それを別室で観察するものである。被験者は、そのソフトを使ったこのない人やそのソフトを使う人たちの代表のような人たちである。
私は、ソフトウェア開発において仕様を策定する立場にあり、策定した仕様が実際に有効なのか?あるいは、既存の仕様のどこが問題なのか?を調べるために3年にわたり数種のソフトウェアのユーザビリティテストを担当した。

 そのときに学んだのがタイトルにもある “百聞は一見に如かず” である。
ユーザビリティテストを始めて間もない頃は、ユーザーに頻繁に質問をしてその答えを詳細に書きとめていた。ところが、ユーザーの答えにはあまり一貫性がなく、仕様の策定にはあまり役に立たないことに気がつくのにそれほど時間はかからなかった。
 私が悩んでいるときに、そのときの上司が 「ユーザーの意見を聞くんじゃなくて、ユーザーのやっていることを見るんだよ。自分の目を使って情報を得るんだ。」 というアドバイスをくれた。それを聞いた私は目から鱗が落ちる思いであった。

 それからは、あいかわらずユーザーに対して質問はするものの、質問は自分の仮説を確認するためのものがほとんどとなった。つまりそれまで、「XXXをどう思いますか?」 といった質問から、「XXXには気がつきませんでしたか?」「XXXを使わずにOOOを使ったのはどうしてですか?」 といった具合である。

 よく覚えているユーザビリティテストがあり、その回はユーザーから過去に要望にあった機能を実装した開発中のソフトを使っていた。
ユーザーは最初気がつかなかったので、
 私 「XXX を使ってみてください。」
 被験者 「XXX いいですね~。この機能が欲しかったんですよ。」
そのあとも引き続きテストしてもらい、テストの課題に XXX を使うと簡単にこなせるものがあったが、その被験者はついに XXX を使うことはなかった。
つまり、「欲しい機能」 といいつつ、実際にソフトを使っているときは XXX を使わないのである。
もちろん、使い慣れていないというためであるだろう。それよりも私がここで言いたかったのは、ユーザーが“すごく欲しい”といったとしても、慣れも含めてそれを本当に積極的に使うとは限らないということである。
前回のテーマとつながる話だが、開発者はユーザーの意見を鵜呑みにしてはいけないのである。

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2006/09/18

マニュアルなしでも使える

 以前、年賀状印刷ソフトの開発にかかわっていたときの話である。

 年賀状印刷ソフトは、ほとんどの場合、一年に一回しか使わない。中には、暑中・残暑見舞いを出す人もいるだろうし、転居のお知らせを出すこともあるだろう。名刺を作るために頻繁に使っている人もいるかもしれない。でも、大多数の人は、年末の一週間から十日だけ使うにとどまっていると思う。

 そこでそのときの開発チームが掲げたコンセプトの一つが “どんな人でもマニュアルなしで使える” である。自分でプログラムを組めるほどのヘビーユーザーであっても、一年のうちで十日ほどしか使わないソフトの使い方など、ほとんど忘れてしまうだろう。つまり、新規に購入したユーザーも継続して使ってくれているユーザーも、毎年使い始めるときは全員初心者ということである。
であるならば、毎回マニュアルを読まなければ使えないようなソフトはめんどくさいことこの上ない。ソフト起動して、画面を見ればどう使えばいいか、どの機能は何にどう使うのかがわかるようでなければならない。そのために、使い込めば使いやすくなるような機能はすべて排除していった。表面に見えるものがすべてである、という形にしていったのである。
もちろん、最終的にはすべてを簡素化することなど出来なかったが、チーム全員の努力によりかなりのレベルに仕上がったと今でも思っている。実際、ユーザビリティ(使いやすさ)・テストにおいては、他者の同種のソフトに比べて、目的を達成するまでの時間や手順の間違いが明らかに少なくなったことが確認できた。

 ソフト開発からも会社組織からも離れた私にとっては、いい思い出である。(  ̄- ̄)トオイメ

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2006/09/12

人事採用

 私は人を見る目がない。
今回は、仕事での採用の話である。友人とか恋愛とか個人的なことは一切関係ない。あくまでも経済活動の場である企業における採用の話である。

 私がとあるPC向けソフト会社に勤めていたときの話である。
私はとあるプロジェクト内のチームリーダーをしていた。職種はソフトウェア・テスティング、ソフトの品質管理である。
プロジェクトを拡大するために人員を補充する必要があり、1年半で150人ぐらいと面接した。中途採用のための一次面接である。その150人も大量に人事部から送られてくる履歴書から選抜した人たちなので、履歴書を含めれば採用候補者はおそらく1000人を越えていたであろう。
面接を始めた頃の10人ぐらいまでは、よくわからずに面接していたような気がする。ところが、20人、30人と面接していくと、だんだんポイントがわかってくる。面接時間は平均1時間であるが、数十人と面接をしてくると、最初の10分でだいたいその人が自分の希望している人材なのかそうでないかがわかるようになってくる。そこが曲者である。わかるようになった気になっていたのである。
はたして150人面接をして、最終的に採用したのは3人。うち2名が入社をして、1名は辞退した。その2名も私より先のその会社を去ることになった。能力的には問題なかったが、自己の健康管理であるとか、企業の文化になじめなかったようである。

 社員が決まらない間は、派遣会社から派遣社員を受け入れていた。数名をあるときは同時にあるときは入れ替わりながら働いてもらっていたが、ここでも私の人を見る目がないことがわかってしまった。
“おっ、こいつはなかなかやりそうだ。” と期待した人材が、プロジェクトの進行について来れずに1~2ヶ月で退場してもらうことになったかと思えば、
“うわ~、このレベルの人が来ちゃったよ。大丈夫かな~” と心配した人材が、努力で当初の不安を払拭して長期にわたっていっしょに働くことになったりした。

 プロジェクトの見通しとか、プログラムの品質の良し悪しについての自分の感覚はけっこう自信をもっている。実際、自分の間隔を信じて大きな失敗をしたことはなかった。(小さな失敗はある)
しかしながら、企業における人材を見る目についてはいまだに自分を信用できないでいる。だから、人をうまく活用できる人を見るとうらやましいと思うし、私は自分ひとりで仕事を終わらせるのが好きである。

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