カテゴリー「文化・芸術」の23件の記事

2009/02/07

むやみな成長よりも永続的な持続性を私は選びたい

今の資本主義はもう、やめてくれ
“森の国”の思想が次の経済システムを作る

 安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)
 篠原匡(日経ビジネスオンライン記者)
  日経ビジネスオンライン [2009年2月4日]

 題材が宗教の話しなので異論のある人も多いだろうが、私にはほとんど賛同できるないようだった。むしろ、私が長いことモヤモヤと感じていたことを、明確な言葉にしてくれたと感じている。

 私も宗教を否定するつもりはないし、必要なものだと思っている。ただ、私自身は神や仏や宗教を信じていない。私は現実に自分で見聞きしたものを信じることにしている。そんな私だからこそ、上の記事になおさら賛同できるのかもしれない。

安田 マルサスは「人口論」を出した時にこう言いました。「神の命の通り、一生懸命働いていれば豊かになれるはずだ」と。「貧しい人間は神の命に背いた人間であり、罰を受けているんだ」と。

 3ページ目のこの考え方は、私が初めて目にした言葉であり、同時になぜ今の米国的資本主義が大問題だと感じるのかを教えてくれた。

 日本にも 『働かざるもの、食うべからず』 という言葉があるが、これには神といった人が介在できないモノは含まれていない。同時に過程に対する結果を表している。

 それに対して上記の言葉は、結果に対して人ではどうしようもない神を持ち出して、裕福そのものを無条件に肯定している。これではルールやモラルを無視してでも 「裕福になったものが正しい」 という価値観が生まれたとしても不思議ではない。

この市場原理主義の考え方は、大量の情報を持つ人間、つまりカネをたくさん持つ人間にとってメリットがある。社会のエリートをサポートするには都合のいい理論、支配者にとっては都合のいい理論でしょう。

 やはり3ページ目の、この部分などは、まさに私がここ数年ずっと感じてきたことだ。小泉元首相が進めた構造改革も、結局は支配者、為政者にとって都合のいいモノでしかなかった。

 4ページ目では、「日本はもともと成長よりも持続させることを大切にしてきた」 ことを説明している。私も日本はふたたび旧来の価値観に戻すべきだと思っている。「成長しなければ意味がない」 という考えの否定だ。

 以前どこかの記事で 「京都は同じ商売のやり方を続けて、何百年も続いてきたお店が何軒もある」 という内容を読んだことがあった。時代に合わせて少しずつ変えることはあっても、卸値が少しばかり安いからといって長年商売をしてきた相手を変えることはないという。そうやって数百年続けてこれたのだ。

 成長を追い求めたあげく、数十年からせいぜい百年で行き詰った金融資本主義と比べれば、どちらが社会にとって適したシステムなのかは、私にとっては明らかなように思うのだが。

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2008/12/17

大河ドラマ “篤姫” 全50話を見終わって

 人気があった NHK 大河ドラマ 『篤姫』 が最終回を迎えた。私は、再放送から見始めたので、全50話を2ヶ月で見るという、短期集中型で見た。おかげで、初めのころの内容を忘れることなく、最終回を見られた。

 視聴率や世間での取り上げられ方を見ると、このドラマ 『篤姫』 は成功だったといってよいだろう。

 その成功の要因の一つは、“わかりやすさ” というのが、共通した評価のようだ。私も、そう思う。

 実際に私も、この 『篤姫』 を見ていくことで、なぜ幕末があのような流れになったのかが、より明確に理解できたように思う。たとえば、、“井伊直弼” と “安政の大獄” は、私の頭の中では、はるか大昔の出来事のように感じていた。その一方で、“明治”、“西郷隆盛”、“大久保利通” は、比較的近代の事だと理解している。それが今回、西郷隆盛が安政の大獄で処分されたエピソードを見て、安政の大獄が実は近代の出来事であることが、私の頭の中で認識できるようになった。

 限られた放送時間の中でわかりやすく描こうとすれば、物事を一面的にしか見せられないといった問題もあったように思う。それでも、わかりやすく描いて、多くの視聴者をひきつけたことは評価できると、私には思えた。

 たまに、「わかりやすいモノは、レベルが低い。レベルの高いものは、難解なモノ。」 という意見を聞く。しかし私は、「『レベルの高いものは難解』などという人は、わかりやすくモノが作れないレベルの低い人の言い訳」 だと思っている。

 とはいえ、しょせんはドラマ。あちこちで見られる “演出” もっと悪く言えば “ご都合主義” があからさまに見られたことには、私も苦笑せざるを得なかった。

 悪役っぽく登場した人物たちが、退場するときには “いい人” で終わるのは、そのいい例だろう。篤姫に最初冷たく当たった “英姫”。安政の大獄を行った “井伊直弼”。三人の将軍に渡り大奥を取り仕切り当初篤姫と対立した “滝山”。徳川家茂を挟んで篤姫と対立した “和宮”。和宮を守るために大奥に来た和宮の母 “観行院”。などなど

 皆、篤姫とかかわったことで、生き方・考え方が大きく変わったという演出をすることで、篤姫の影響力の大きさを表現しようとしたのだろう。ただ、私にはあまりにもあからさますぎて、苦笑するしかなかった。coldsweats01

 ドラマから離れて、歴史的な観点から見ると、私には篤姫を全肯定しすぎてる点も、気になった。

 例えば、幕末の頃の幕府の財政は逼迫していたにもかかわらず、強行に大奥の現状維持にこだわった篤姫の行動。自らの家、家族、身内を守ることは、人としてごく当たり前のことで、それについて批判するつもりはないし、そもそも批判できるものではない。だが、結果論ではあるが、大奥の固執が徳川政権を縮めたのではないかと、私には思える。

 国の借金が膨れ上がっているにもかかわらず、予算の獲得が自分の出世に重要なために、膨大な予算を要求して、与えられた予算はなにが何でも使い切る役人の姿とダブってしまった。

 この件に限らず、老中達の先例主義、自らの地位保全のための行動、都合の悪い情報の隠蔽、といった、現在の政治状況を髣髴とさせる描き方は、篤姫の製作者側が意図的に行っている演出としか思えなかった。

 なんだかんだ言ったが、篤姫 全50話を見てよく出来ていると感じた。ひさびさに NHK 受信料を払っていて良かったと思えた。catface

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2008/08/04

ワンダーフェスティバルに行ってきました

 遠くにいる友人が、東京港臭い展示場でやるワンダーフェスティバルに来るというので、友人に会うついでに、私もワンダーフェスティバルを見てきた。

 世間一般には、“エスカレーター事故” の方ですっかり有名になってしまったワンダーフェスティバル。私は、会場時間の10時にようやく最寄の駅に到着したので、事故の現場に立ち会ってはいない。だが、事故は私の友人の目の前で起こっていた。友人は、一瞬何が起こっているのかわからなかったといっている。それほど一瞬の出来事だったようだ。

 もっとも、事故についてはあちこちのニュースやブログで詳しく報告されているので、ここでそれについて言及するつもりはない。(と言いつつ、現場検証をしているところの写真はしっかり撮っていたりする)
200808034

 目的地の駅に着いて、まず驚かされたのが、入場の順番を待つ人の列だった。

 10時に開場するというので、その時間をめどにして、少し待てば簡単に入れるだろうと高をくくっていたら、甘かった。 orz
人の列が延々と続いていた。後で聞いた話では、ゆりかもめの二駅先まで列が続いていたとかいなかったとか。

 事前に昨年の入場者が4万5000人、今年の目標が4万4000人という数値は知っていたが、4万人がどういうものなのかは、私の想像をはるかに超えていた。

 はるかかなたの最後尾まで行くのがイヤになった私は、近くのパナソニックのショールームを見学して、それでも列が終わりそうにないので、サイゼリアで早めの昼食をとった。

 サイゼリアで1時間ほど時間をつぶした11時50分ごろ、ようやく最後尾のカンバンが目の前を通り過ぎて行った。

 結局、私が開場に入ったのは12時30分ごろだった。

 入場したのは屋上のコスプレ広場だった。何人ものコスプレーヤーが壁沿いに配置していた。面白かったのは、撮影の順番を待つ人の列の長さが、そのコスプレーヤーの人気のバロメーターに見えたこと。露骨に人気投票になってた。人気のあるコスプレーヤーのところには20人以上並び、人気のないコスプレーヤーは暇そうにボォ~っとしてた。

 コスプレーヤー達を一通り拝見した後、展示室内に入った。入ったところで友人と合流して、開場内部はすでに一通り開場を歩き回って目的を済ませた友人と見て回った。

 一通り見て回って感じたのは、「フィギュアが好きで、自分が欲しいものを作っている人達」 と 「ビジネスとして成功するから、人気のあるキャラクタを量産化して売る人達」 に明確に分かれているな、ということだった。

 私の世代だと泣いて喜びそうなマイナーなキャラクターやアイテムを作って売っている人たちがいた。例えば、 宇宙戦艦ヤマト に出てくる ガミラス星人 が使う持ちにくそうな銃 200808031 や、冥王星基地に設置された反射衛星砲と反射衛星 200808032 、さらに反射衛星砲のトリガー 200808033 などだ。しかし、最近の若い人たちから見れば何がうれしいのかわからないだろうな、とも思った。

 また、個人的に “ゴジラ” シリーズや、“バーチャロン” シリーズのフィギュアが並んでいたのも楽しかった。

 お金を出してでも欲しいと思ったものはなかったが、一つだけグラッと来たものがあった。写真は撮らなかったのだが、直径30cmほどの丸まったダンゴムシのフィギュアだ。ミョ~にリアルで、「そうそう、こんな感じだよね。」 と思わず欲しくなってしまった。なにしろ、普段からアリを観察するために四六時中地面を見回しているので、ダンゴムシもよく目にする。見慣れたダンゴムシの巨大サイズが目の前に出てきたので、親近感が湧いたのかもしれない。

 ただ、値段が値段だったので買うまでにはいたらなかった。また、カミさんや子供が嫌がるだろうな~というのもわかっていたのも、買えなかった理由の一つだった。

 結局私は見て回るだけで、何も買わずに会場を後にした。入場料を払っているので、ワンダーフェスティバルでしか買えないアイテムを買わないのももったいなかったのかもしれない。

 そうはいっても、はるか以前に大金を使って UFOキャッチャー で(もちろん欲しくて)取ったフィギュアが、結局家では飾られることもなく、段ボール箱にしまわれているのだ。これ以上、段ボール箱の中のアイテムを増やす気にはなれなかった。

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2008/03/01

著作権についての一般人視点からの記事

人生の諸問題    
「テレビ」と「ウェブ」と「著作権」と
岡康道、小田嶋隆、清野由美
NBonline [2008年2月29日]

 若干、「そこまで言わなくても」 とか、「それはちょっと違うんじゃない」 と思うところもある。例えば、

小田嶋 「例えばソフトウエアのウインドウズとか、グーグルとか、でかくなるビジネスって、今はだいたい、タダで配られる方向でしょう。」

とか。いやいや、Windows はタダでは配られてませんよ、と。(汗)  パソコンに始めからインストールされていますが、パソコンの代金にきちんと含まれていますから。(汗)

  それでも、おおむね賛同できる内容だ。

  “著作権” という権利に対する説明として、

小田嶋 「もともと著作権という発想がどこにあったかというと、海賊版を作る人たちがいて、そういう人たちから作者を守るために生まれた法律であって、本来ユーザーを縛るためのものじゃないんですよ。(中略)
当初はすごく悪意のある海賊版業者が資金とネットワークを持って、複製を犯罪的に作っている、ということを想定してできた権利だったんだけど、今は素人を相手に、お前らどれだけコピーをするか分からないから、コピーさせないぞ、みたいな縛りに変質してきているでしょう。」

というのは、よくわかる説明だ。

  他のシリーズ記事で取り上げられている “海賊版により中国の動漫ブームができた” という話を出して、より多くの人に目にしてもらうことで、さらに大きなビジネスに結び付けられることを示している。

  “デジタル万引き” についての内容も、普通の人の感覚で書かれていて共感できる。

小田嶋 「雑誌社からすると、本当は売れたはずなのに、という理屈なんだけど、でも要するに120ページからある雑誌の中の1ページしか欲しくないような雑誌を、あんたたちが作っていたわけでしょうという。たとえば20ページ分撮らなきゃいけないようなら買うでしょう。」

  良い悪いは議論のあるところだろうが、デジタル万引きの本質を突いている意見だと、私は思う。

「たとえばドラマで女優が着ているスカートがほしくなって、それを買う。そういうようなことが起きるんじゃないか、と言われているんだけど、そんなに買うかね、いちいち。」
小田嶋 「あれはうそですよ。」

  私もそう思う。私が好きな 銀河英雄伝説バグダッシュ という情報部の人物がいる。その人物の台詞に、

「世の中に飛び交ってる情報ってものには、必ずベクトルが掛かっているんだ。つまり、誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり、その情報の発信者の利益をはかる方向性が付加されている。それを差し引いてみればより本当の事実関係に近いものが見えてくる」

がある。私が好きな台詞の一つだ。政府やテレビ局が必死に地デジを宣伝する裏には、やはり何らかの彼らにとっての利益があると考えたほうがわかりやすい。

小田嶋 「ウチの子供なんかリアルタイムでテレビを見ていない。見たいものがある場合は、それを録画して好きな時に見るというスタイルが定着してる。CMどころか、番組全体をスキップして見てるわけだからね。」

  我が家でもまったく同じだ。たまにリアルタイムで放送を見ていると、CMがスキップできずに家族みんなでいらいらしている。(笑)

  次回の “次回、しぼみそうなテレビ広告” も楽しみだ。
(・∀・)

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2008/02/25

腐女子の実態に迫る?

 いや~、なんともすごい分野があるものだ。

裸の男子の汗をふき、「ヘブン顔」を勝ち取れ
――バンダイナムコ「乙女ゲー」開発秘話

 ITmedia News [2008年2月22日]

 別に私はこれが特殊なものだとは思わない。私を含めた男が、“女性の胸に顔をうずめてみたい” と思ったり、“膝枕してもらいたい” と思ったりするのと同じようなものだと思うからだ。

 と同時に、私には理解できない世界でもある。社内男性陣の、

  • 「これ……面白いの?」
  • 「……もう、好きにやってみればいいじゃない」

という反応のほうが、やはり私には理解しやすい。coldsweats01

 もう一つ面白く読んだのが記事の下にリンクしてある座談会だ。

緊急座談会:
激白! 腐女子のホンネ

 ITmedia News [2007年12月7日]

 昔は今よりもずっと濃いヲタクだった自分を振り返りながら読んだ。

 声や声優が重要な要素であるというのは、私には遠い世界だ。男の側でも声や音楽にこだわる人は多い。だから、ゲームメーカーもゲーム内のボイスや音楽にはずいぶんと気を使っているようだ。しかしどういうわけか、私は昔から声や音楽が気になったことがない。

 逆に 「デッサンとか狂ってると萎えますよね。」 という意見にはかなり賛同できる。最近は、顔はすごくうまくかけているのに、全身は妙にバランスが悪いマンガをよく見るし、とても気になる。

 どんな彼氏がいいか、という質問に対して、

  • 自分を放っておいてくれる人
  • 自分の趣味を許してくれる

という話が出ている。うちのカミさんはものすごく英語が好きで、休日に英語教室に通っているぐらいだ。私はといえば、「英語なんてなければいいのに」 と思うぐらい英語が嫌いで、選択科目だった高校三年生の英語を取らなかったぐらいだ。それでも、カミさんが好きな英語に金や時間を使うことは気にならない。積極的に協力もしていないが、反対もしていないといったところか。ということは、私は 「包容力のある男」 ということになるのだろうか。bleah

 まぁ、私は単に、自分が好きでやっていることにあれこれ口出しされたくないので、他の人が好きでやっていることに口を出さないだけなのだが。

 座談会の最後で 「別のカップリングの人たちが集まると、(中略)、お互い気をつけて話すんです」 という部分がある。これは私も同じだ。同じガンダム好きが集まったとしても、こだわっている部分が違えば、やはりそれなりに気を使って話をする。

 だから、男性ヲタクについてのコメントも、やや行き過ぎた人たちに対するものだけだったの残念だった。彼女らがコメントした人たちは、腐女子サイドで言えば

  • 自分の描いたものを声優さんに送る人
  • 作家に送る人
  • 電車やバスの中で堂々と同人読んでる人

のグループに入る人たちだ。

 メディアでコメントを求められたときに、どうしても極端な人たちを代表者のようにあつかってコメントをしてしまう。せめて、メディア側の人間がそういう部分に注意を払ってほしかった。

 そういえば、ユーザビリティ テストをしていたときも、被験者が 「初心者には」 とか 「初心者にとって」 など、自分ではなくステレオタイプな初心者を引き合いに出してコメントしたときは、要注意だった。

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2008/01/30

作り手のための著作権法とは

 今回の記事は、以前の記事よりはるかに落ち着いて読むことができた。

作り手を“やる気”にさせる著作権とは
――島本和彦氏など語る

 ITmedia News [2008年1月28日]

 世間一般には、

  • 著作権者=儲けている人=クリエイター

という認識が強いと思う。実際、私もそう思っていたし、今でもついつい勘違いしてしまう。しかし、この記事を読むと、多くのクリエイターが実は報われていないことがわかる。

「今の著作権法は、自分は何もクリエイトせずに流通を支配しているだけの人に巨額のお金が渡る。」 (東京大学大学院教授 玉井克哉氏)

 私もこの点が現在の著作権法の最大の問題点だと思っている。クリエイターに対価が支払われ、流通をサポートした人には多少の手間賃が支払われる、というのが本来あるべき姿ではないのか。

 いつの頃か、どこかで頭のいい人が、著作権法の “問題” を見抜き、流通や公開をめんどくさがるクリエイターから作品を買い叩けば、大もうけできるということに気がついたのだろう。

「著作権法にはクリエイターを守る規定がほとんどない。それに手を付けずに権利を主張するのは、旧来のメディア企業が利益を守ろうとイチャモンをつけているようにしか見えない」 (法政大学准教授 白田秀彰氏)

 この意見にも私は大いに賛成だ。確かに、既得権を守ることは個人の生活を守るために必要なことでもある。だが、あまりにも一部の人たちだけで利益を独占して、その他大多数の大きな不利益になる場合は、既得権を排除すべきであろう。

 著作権法には直接関係ないが、

「法学者の意見は必ず現状維持にバイアスがかかっているから信用しないほうがいい。できませんは『やりたくない』という意味だ」 (東京大学大学院教授 玉井克哉氏)

という意見に、「学者は公務員か?」 と思わず心の中で突っ込んでしまった。

 記事の中の細かい法律的な内容については、残念ながら私には判断できなかった。

 また、

「今の段階で著作権法はすでにスパゲッティ状態。これに新たにくっつけるのではなく、著作権法そのものの大改正がまず必要」 (法政大学准教授 白田秀彰氏)

というのが最善だというのはわかる。しかし、私の少ない経験からでも、「難しいだろうな」 と思えた。ソフトウェアの場合、プログラマはつぎはぎだらけになった古いプログラムを捨て、一から新しいプログラムを書きたがる。ところが、たいていの場合は、以前と同等の機能を実装できずに頓挫してしまう。だから、もし本当に大改正をするというなら、

「現行の著作権法は維持し、特別法や契約法で対応すべき」 (早稲田大学大学院准教授 境真良氏、一橋大学大学院教授 岩倉正和氏)

と並行で進めていくべき話なのだろうと思った。

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2008/01/07

ら抜き言葉は、積み木崩し

 以前私は、日本語処理関係の仕事に関わったことがある。そのため、日本語そのもののについて、今でも多少興味を持っている。少し前には、“敬語の破綻” についての記事を書いている。

 この間、こんな面白い記事を見つけた。

コトバの戦略的思考
「ら抜き言葉」
 梶井厚志(京都大学経済研究所教授)
  ダイヤモンド・オンライン [2007年12月11日]

 この記事は、ら抜き言葉 を 「間違った日本語」 とはしていない。「なぜ ら抜き言葉 が広く使われるようになったのか」 を、わかりやすく説明しているところが、私には新鮮に映った。

 そして、“積み木崩し” を例に出して、「実は、どの字が省略されるかは、はじめから決まっているわけではない。」、「他の字が省略されてしまったため、残された字が取り除けない字になる。」 という説明に、私は感心してしまった。
 (もし、“積み木崩し” でテレビドラマを思い出してしまう人は、“ジェンガ” を想像するといいだろう。)

 とはいうものの、私自身は ら抜き言葉 を使うつもりはない。子供の頃からの刷り込みの影響なのか、ら抜き言葉がひどく不自然に感じるからだ。“可能” を表すならば、素直に 「食べることができる」 と表現する。書き言葉ならなおさらだ。

 日本語について、梶井厚志氏は今後も面白い記事を書いてくれそうだ。早く次の記事を書いてくれないかと心待ちにしている。

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2008/01/01

新年明けましておめでとうございます

 2008年、最初の投稿。(と言っても、これを書いているのは、まだ 2007年だったりする。)

 さて、タイトルが 「あけましておめでとう」 というわりに、残念ながら、私には新年を祝う気持ちが、あまりない。二十歳を過ぎた頃から、「年越しといっても、しょせん人が定めた暦の上でのこと。自然界においては、特別変わった日でもあるまいし。」 という、ひねくれた考えをしていた。その気持ちは、今も変わっていない。

 私の実家では年末になると、父親がお正月向けの神棚を作る。正月三が日は、ご馳走をまず神棚にお供えしてから、自ら食する。しかし、私にはその習慣を受け継ぐつもりがない。

 別にお正月を祝う習慣が、悪いとか、間違っていると思っているわけではない。それにはちゃんと意味があり、そういう習慣を受け継いでいく人たちがいたほうがいいと思っている。

 ただ、そもそもそういう慣わしには、根拠となる生活様式があったはずだ。お正月やお盆を家族で祝うことは、農業を生業として、毎日を重労働に追われていた生活様式があってこそ、意味があるものだと思っている。秋祭りなども同様だろう。

 では、今の都会の生活はどうだろうか。会社勤めの核家族が人口のほとんどを占める。会社の多くは週休二日制だ。建前では、農作業のように休みなく労働を強いられる生活ではなくなっている。子供達も学校は週休二日制であり、毎日、農作業の手伝いをさせられる時代ではない。

 そんな時代に、農家が大半を占めた時代のイベントだけが残ることが、私にはひどく不自然に思えて仕方がないのだ。不自然という意味では、クリスマスを多くの日本人が祝うというのも、私にとっては同様だ。だから、私はクリスマスを祝うことも、あまり気乗りがしない。

 一昔前は、お店が大晦日から正月三が日は、お休みだった。今は、大手スーパーなど、大晦日も元日もほぼ平常どおりに営業している。多少閉店時間が早いぐらいだ。コンビにはもちろん年末も元日も関係なく24時間営業だ。

 おせち料理は、正月三が日に食材が手に入らない、普段休めない女性たちを休ませる、といった意味があった。しかし、今や元日から普通に買い物ができ、家電製品、外食、中食により、家事を担当する者も、一年中休めないわけでもない。ならば、日持ちはするが、それほどおいしいとも思わないおせち料理よりも、正月からきちんと料理をして、普段どおりの食事をしたほうがいいと、私は思っている。

 繰り返しになるが、皆がお正月を祝うことが間違っているとは、一つも思っていない。単に私個人にとって、ひどく違和感があるというだけだ。

 ただ、10年後、20年後を考えると、私のようにお正月やお盆を単なる “長期休暇の時期” と捕らえる世代が、増えていくのではないかと考えている。そうなると、今は年末になるとどこでも売られているお正月飾りやおせち料理の食材コーナーは、徐々になくなっていくのではないか。今日、街を歩いていて、そんなことを考えていた。

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2007/09/11

残すべきか、外すべきか

 今回は、アダルトな話。

 私もいちおう男なので、アダルトビデオは嫌いではない。というか、好きな方だ。
(^_^;)

見えない“基準”をのぞく…AV業界モザイク戦争
産経新聞社 [2007年9月10日]

 私が注目したのは、

AV業界関係者は「歌舞伎町などの繁華街では裏DVDが堂々と売られ、ネットでもモロ見え動画が簡単に手に入る時代に規制の意味があるのか。規制があるから暴力団の資金源にもなる」と本音をポロリ。

の部分だ。

 歌舞伎町で裏DVDを買ったことはないが、インターネットで流布しているモザイクなしのアダルトビデオならば、簡単に入手することが出来る。しかも、違法コピーではなく、アダルトサイトが公開しているプレビューなどは無料で見ることが出来る。

 そんな状況が当たり前に感じている私には、「規制の意味があるのか」 という発言と同じ思いがある。

 とはいえ、「現実と合わないから」 という理由だけで、規制を外すわけにはいかない。たとえば、「酒を飲んでも車を運転できるし、みんなやってるから、飲酒運転の禁止は意味がない」 と言ったら、ほとんどの人たちに反発を食らうだろう。飲酒運転は多くの人たちにとって、命の危険に直結するからだ。

 「アダルトビデオのモザイクを外すのは、人命に関係ないだろう」 と言われそうだ。たしかに、人命には直結しないと思う。しかし、社会や文化に影響を及ぼして、日常生活が不快なものなる可能性はある。あくまで可能性だが。

 私個人の意見は、「今の時代、もはやモザイクを外しても問題ない」 と思っている。短期間ではあるが、アメリカで生活した経験からすると、モザイクの有無はそれほど日常生活に影響を及ぼさないと思ったからだ。

 それよりもむしろ、日常生活で目にする性的な描写の規制を、もっと厳しくすることのほうが重要だと感じている。アダルトビデオにモザイクのないアメリカでも、日常生活内の性的描写の規制は、日本などよりはるかに厳しい。

 日本のお役所仕事は、やはりどっかポイントがずれていると感じる。

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2007/09/04

これじゃー男はだまされるわけだ

お化粧ひとつで“人”が変わる。
 第34回トークショー [化粧とコミュニケーション]
  第2部 メーキャップの変遷
   [銀座の学校 2002年6月28日]

 私が驚いたのは、化粧の特長の変遷ではない。モデルの女性がすべて同じだということに驚かされたのだ。

 よく見れば、たしかに鼻の形は同じだ。目や唇は化粧によって印象を大きく変えられるが、鼻はなかなかそうは行かない。実は、耳が一番人物を特定するには有効なのだが、残念ながら、これらの写真にはほとんど耳が写っていない。

 飯島愛が、すっぴんでテレビ局に入ろうとすると、かならず身元確認を求められたという話を、テレビなどでよく聞いた。また、日の浅いカップルが、一夜を共にした翌朝に、男が隣で寝ている女の顔を見て、「あんた、誰?」 と聞いたという笑い話も、よく聞く。

 それらは面白おかしく脚色されていると、これまでずっと信じていた。

 しかし、今回この8枚の写真を見せられて、それらのエピソードが、けっして誇張などではなかったことを確信した。

 私から見れば、これらはもはや “特殊メイク” にしか見えない。しかし、その技術を世の多くの女性達は持っているのだ。これでは男は簡単にだまされるわけだと、みょーに納得してしまった。

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2007/09/03

ぜひ東京でも見てみたい

ロゴが消えたサンパウロの街
 [PingMag 2007年8月27日]

「今年の初め、サンパウロで施行された新しい法律は、ほぼ一夜にして街の景観を激変させた。その法律とは、なんと、広告、看板、ポスターの全面禁止!都市部から違法なビラ広告を一掃する試みとして、あらゆるものが禁止されることになったのだ。」

 私にとってはなんともすばらしい話だ。普段、自分勝手な醜い看板を見せ付けられてうんざりしている私にとっては、ぜひ、東京もこうなって欲しいと願わずにはいられない。

 リンク先のコメントの中には、

「“視覚的ガラクタ”がないのは確実にソビエト」(rdouglaswright)
「北朝鮮みたい。北朝鮮に住みたい人なんている?私は御免だ。」(muaddib420)
「宣伝を排除したら、街がどれだけ汚いかが分かる。少なくとも宣伝は色を添えていたと思う。」(Frostfox)

といった、ネガティブな意見もある。それらの意見も理解できるし、一理あるとも思う。しかし、私は圧倒的に宣伝広告や看板のない町並みを支持する。

 日本でも、いくつかの地方自治体では、建物の高さ規制とか、一部の色規制とかを行っているようだが、さすがにサンパウロのように徹底的には出来ないだろう。変に歪んだ自由主義や、都合のいいように語られる市場経済絶対主義が蔓延している、今の日本。経済業界から私的に恩恵を受けている行政担当者達が、経済業界のマイナスにしかならない規制を行うとは思えない。

 企業の経済活動を優先して、経済的に豊かになることだけが、豊かな生活につながる時代は、とうに終わっていると思っている。それよりも、サンパウロのように醜い宣伝活動を禁止して、落ち着いて歩ける町並みを作る。ヨーロッパのように、商業中心区域への自家用車の乗り入れを一切禁止して、排ガスの少ない都市部を実現する、ほうが、よっぽど豊かな生活につながると、私は信じている。

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2007/08/13

東京湾大華火祭

 週末に “東京湾大華火祭” にいってきた。今まで見にきたことがなかったのだが、ちょっとしたツテで、冷房の効いた部屋から花火が見られる、ということで、初めて見にいった。

 見学場所が竹芝桟橋近くということで、新橋駅から ゆりかもめ に乗って竹芝駅まで行こうとしたのが、間違いだった。まず、ゆりかもめの新橋駅の建物の前で入場制限をやっていた。駅員が 「乗車までに40分ほどかかります」 といっていたが、駅に入ってしまえばすぐに乗れるだろうと甘く考えていたら・・・、本当に甘かった。
○| ̄|_
駅の端から端まで使って、「どんだけ並ばせるんだ?」 というほど、改札まで長い行列が続いていた。ディズニーランドの人気アトラクションも真っ青な行列だった。

 少し並んでいたが、いつ ゆりかもめ に乗れるかわからなかったのと、お台場に行くわけではないということで、結局、竹芝桟橋まで歩いていった。

 そういえば、ずっと以前に、調布の花火大会に行ったときも、人大杉 で改札になかなかは入れなかったことを忘れていた。普段、人が集まるイベントに行かないので、すっかり忘れていた。

 さすがに、冷房の効いた部屋で、いすに座ってみる花火は、まったく疲れずに見ることができた。普段ならば、途中で飽きて 「帰ろう、帰ろう」 と騒ぐ子供も、今回は落ち着いて最後まで見ていられた。立っているだけで汗だくになるところで、ずっと立ちっぱなしで、上を見上げていたら、そりゃ~、大人でも30分でイヤになるから、子供がすぐにイヤになるのはしょうがないのだけれど。

 せっかくなので、写真を撮ったが、全滅だった。
○| ̄|_
花火を写真に取るには、三脚が必須であった。手持ちでは、花火の軌跡がミミズがはったようになってしまい、とても見られたものではなかった。

 他方、ビデオは、多少ぶれていても、人の目と脳が手ブレ補正をしてくれるので、結構、見られる。私が取ったビデオのサンプル(無音)はこちら↓。

Fireworks20070811 (約40秒、約2.2KB)
  (クリックで再生)

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2007/07/20

個人力か、組織力か

 映画 “トランスフォーマー” について、こんな↓インタビュー記事が載っていた。

驚異の映像『トランスフォーマー』の日本人技術者が製作秘話を明かす!
  シネマトゥデイ [2007年07月18日]

 よりリアルに見せるために、「変形させるときに、部品を変形させるのではなく、部品を組み替えるようにした」 とか、重量感を出すために、「カメラワークでロボットの動きの速さを変える」 とかの話も面白かった。

 しかし、私が一番興味を引いたのは、

ILMには、日本のテレビ局や製作会社によくある“徹夜”はないそうだ。徹夜になりそうな作業は、どんどん人員を増やし、マンパワーで補うからだ。

の部分だ。

 “徹夜” とは、個人の力で物事を完遂するやり方だ。他方の “人員増強” は、組織の力で物事を完遂するやり方だ。

 これを読んでなぜか思い出したのが、太平洋戦争中の日米の魚雷開発の違いだ。太平洋戦争初期は、日本も米国も魚雷の命中精度の低さに頭を悩ませていたらしい。日本は「お前の根性がないからだ」 などと言って、個人の技術で命中率の低さを補おうとした。他方の米国は、後方部隊が研究をして、実際に命中しなくても船の下で爆発すれば十分に効果が得られることを発見した。そして導入したのが “磁気に反応して爆発する” 魚雷だという。その磁気反応魚雷で、米国軍は海戦で多大な戦果をあげられるようになったということだった。

 個人力に依存した場合、その個人の高い能力で、極めて高い成果が期待できる。その反面、その個人力が失われた場合の影響も大きい。リケンの工業が地震で操業停止になってしまった事故では、リケンという個人(個会社)力に頼ったがために起こった問題ともいえる。

 組織力を優先した場合、不確定要素に左右されにくい強みがある。その一方で、品質が組織の中の最も低い能力に引っ張られてしまうため、品質を上げることが難しくなる。また、ITのシステム開発でよく言われることだが、「すでに遅れているプロジェクトに増員するとますます遅れる」 というマーフィーの法則がある。

 徹夜や個人力頼みが必ずしも悪いとは思わない。ただ、うまくいかなかったときの責任も担当者個人に押し付けて、長時間労働を強いる。最悪の場合、自殺や過労死に至る今の日本の現状を考えると、

1週間に40~45時間以上は働かないようなシステムになっている

というのが、どうしても魅力的に感じてしまう。

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2007/03/24

なぜ著作権は「特別視」されがちなのか

ITmedia オルタナティブ・ブログ

なぜ著作権は「無視」されがちなのか
(久保田 裕) [2007年3月13日]

著作権は所有権ではない
(栗原 潔) [2007年3月14日]

 この二つの記事は同じことを論じてはいない。ということで、両者を対比させることは、もしかしたら妥当とは言えないかもしれない。しかし、後者はよく理解できるが、前者はどうも素直に受け入れることができない、という理由で私は対比しようと思った。後者が受け入れがたい理由に、久保田裕氏が現状の著作権法により利益を受ける立場の人間であるということがある。なにかこう、必要以上に著作権を誇大に見せようとしているような気がしてしようがない。「法律で決められた権利をみんなが軽視するから、私たちは被害をこうむってます。私たちは弱い立場なんです。」 と見せようとしていると、私には思える。法律できちんと保護されている時点で、すでに弱者ではないだろう、と私などは考えるのだが。

 法律に関して素人の私が、あれこれ言っても始まらない。しかし法律というものも、「元をただせば世間の一般常識の延長である」 という専門家の話を聞いたこともある。「私が一般常識の代表か?」 といわれれば、そこまでの自信ない。でもこれまでの経験上、私一人が 「変だ」 と思っていることは、何人か何十人か何百人かは同じように思っているはずだ。

 私が希望するのは、著作者(著作権者ではない)と利用者の双方にメリットがあり、使いやすくて、納得のできる著作権だ。著作権を一括して管理する会社やその会社の役員、社員ばかりが得をする著作権ではない。

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2007/02/10

著作物は人々に利用されて真価を発揮するもの

いつ奈落に落ちるか──著作権“バッシング”に松本零士の思い
(ITmedia News, 2007年2月1日)
「著作者と消費者は本来、対立関係にない。著作者は消費者に愛され、期待され、よい作品を提供する存在になるべきだ」 (日本芸能実演家団体協議会 椎名和夫常任理事)

著作権法制の未来
大阪工業大学 知的財産学部 専任講師 関堂幸輔
「著作物は権利の客体であると同時に文化的所産でもあり,人々に利用されることによってこそその真価も発揮するものだといえます。そこには「権利の保護」と「利用の保護」というジレンマが生じざるを得ません。すなわち,著作者・著作権者等の権利を保護することはむろん重要ですが,それを重要視するあまり他人の著作物の利用が困難になってしまうようでは,著作者・著作権者等の利益も保護されなくなり,ひいては社会全体の文化の衰退を招きかねません。」

 私はこの 「人々に利用されることによってこそその真価も発揮するもの」 で、目からうろこが落ちた気がする。これを読むまでは、そういう視点で著作物を見たことがなかった。

 さらに重要なことは、“人々による利用” が、単なる読書や鑑賞にとどまらず、基本的な部分を模倣した作品の作り変え、つまり “リメーク” も含まれると言う点である。

リメーク・映画化のハードルが高い日本
(ITmedia News, 2007年2月2日)
「著作権が切れた作品は、誰でも自由に利活用でき、作り替えることもできる。英舞台劇「ロミオとジュリエット」がシェークスピアの死後300年以上を経て米ミュージカル「ウエスト・サイド物語」として生まれ変わったのがいい事例だ。しかし、「ロミオとジュリエット」には原典となったブルックの長編詩があり、さらにその種本があるという。ひ孫、孫作品に当たるウエスト・サイドは変形、脚色がさらに進んでいることになる。もし、ブルックの子孫に著作権が継承されていたら、その後の“文化”は花開くことができただろうか?」(ITmedia)

 「ロミオとジュリエット」 から 「ウエスト・サイド物語」 というのも “人々に利用される” 部分に入るわけである。

 では、300年と50年の違いは何なのだろう? 50年では著者や身近な人が生きていて、300年後なら誰も生きていないから? 300年後でも直系の子孫は生き残っている場合が多いはず。そういう人たちは配慮に値しないのか? 何代先なら配慮しなくていいのか? 私が50年や70年という数字に納得が行かない理由である。

 何らかの作品に “インスパイア (^^;)” されて、類似の作品がつくられてもいいではないか。類似作品の質が高くて、オリジナル作品が売れなくなれば、所詮その程度の作品だったということである。逆に、類似作品が注目を浴びたために、あらためてオリジナル作品が売れるということもあるだろう。あるいは、類似作品が “のまねこ” のように、利用者の猛反発にあって消え去るかもしれない。

 いずれにしろ、保護しすぎて誰も、読むことも、見ることも、使うこともできなくなってしまっては、あまりにも悲しすぎる。それとも著作者は、「下手に模倣、改ざんされるかもしれないのであれば、死蔵されるほうがまし」 とでも考えているのであろうか。

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2007/02/09

長期にわたる報酬が約束されなければ質の高い作品は作れないのか?

いつ奈落に落ちるか──著作権“バッシング”に松本零士の思い
(ITmedia News, 2007年2月1日)
「著作権で保護されることが、家族や子孫がある自分自身の精神的な安らぎにもなり、創作意欲にもつながる。」(松本零士)

著作権保護期間は延長すべきか 賛否めぐり議論白熱
(ITmedia News, 2006年12月12日)
「ヨーロッパで死後70年保護されると聞くと『同じような物を作っているのになぜ日本だけ50年なんだ』と思う。『日本も70年にして下さい』と訴えても『お前の作品はもうかっていないから50年でいいんだ』と言われると、わたしも意欲をなくす」(三田誠広)

 私が納得できない部分である。

 松本零士氏や三田誠広氏が、自らの死後も長期にわたって自分の家族や子孫に経済的な恩恵があることが、自らの創作意欲につながっていることはわかった。しかし、著作者すべてが、著作権保護の20年延長で創作意欲が高まるとは、私には思えない。

 歴史的に見て、著作の著作権による保護は16世紀以降のことである。では、16世紀以前には優れた著作はなかったかといえば、決してそんなことはない。16世紀以前の古典と呼ばれる優れた文学や芸術は数多く現存している。Wikipedia によれば、音楽の著作権による保護は、19世紀以降とある。モーツァルトも盛んに盗作を行っていたとのことである。

 モーツァルトの作曲は、ほとんどが受注を受けての制作だったらしい。ベートーベンにいたっては、パトロンさえもいなかったそうである。著作権で自らの作曲が保護されず、金銭的な援助をしてくれるパトロンさえもいなかった。にもかかわらず、あれだけ多くの後世に残る名曲を作曲している。

 もちろん、技術的な状況は今とまったく違う。当時は録音装置などなかったし、インターネットのように簡単に演奏を配信する技術もなかった。単純に現在と比較をするのも、きわめて乱暴であることも承知しているつもりだ。しかし現在においても、著作権による収入や自分の死後50年間の保護など考えずに、自らの主張がしたいという理由だけで、創作活動を行っている人たちも大勢いるはずである。そういう人たちに対しては、後者の ITmedia News で福井建策氏がいっているように、

「文化庁に配分される芸術文化振興のための予算は、道路整備に使われている予算の0.5%以下。文化の振興を言うならば、保護期間の延長よりももっと声をあげるべきことがあるはず」(福井建策)

“生前の保護や支援こそ考えるべき、という意見” に私は賛成である。

 繰り返しになるが、著作権保護の延長によって創作意欲が高まる人たちも確かにいるだろう。しかし、保護を延長さえすれば、より多くの質の高い作品が作られるとは、どうしても思えない。20年の延長は、すでに高い評価が固まっている人が、さらなる利益の確定に向けて主張しているようにしか、私にはどうしても思えないのである。

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2007/02/06

日本音楽著作権協会(ジャスラック)は必要なのか

 私は、下の記事を読んで初めて著作権使用料のかなりの部分が搾取されていることを知った。

「補償金もDRMも必要ない」――音楽家 平沢進氏の提言

特に憤りを感じたのは次の部分である。

平沢氏: 例えばメジャーなレコード会社で活動してたとしますよね。レコーディングが終わるとある日突然、出版会社から契約書が届くんですよ。で、契約してくれと。契約条項にいろいろ書いてあるんですけど、契約書が送られて来た時点で、JASRACにもう勝手に登録されているんです。残念ながらアーティストは、著作権に関してまったく疎い。同時に私自身も疎かったがために、そういうものだと思いこんでいたわけですね。それによって、出版会社に権利が永久譲渡されている曲というのがあったりするんですよ。で、JASRACで集金されたお金は、この出版会社を通るだけで50%引かれて、アーティストへ戻るという構造があるんですね。出版会社は“プロモーションに努める”と言いますが、成果は保障せず、どんなプロモーションをするのか何度説明を求めても、回答しないことがほとんどです。大きなセールスが期待できるアーティストについては積極的に動きますが。

 これを読んで、思わず “共同出版” という美名で自費出版をしたい人から詐欺まがいに利益を徴収する出版社の話を思い出した。他人が法律に疎いことに付け込んで、多額の利益を上げる手法である。そういえば以前に、認知症の人たちの家に意味のない補強工事をして、多額のお金を巻き上げていた事件もあったな~。

 と、話がそれてしまった。そして、ジャスラックについてあちこちのサイトを調べた結果、行きついたのが以下の記事である。

「週刊ダイヤモンド」 2005年9月17日特大号
【企業レポート】 日本音楽著作権協会(ジャスラック)
使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にするあきれた実態

JPEG: 1ページ目2ページ目 (参照元削除によるリンク切れ)
PDF: (内容は上と同じ) (参照元削除によるリンク切れ)

 この記事が100%正しいという保障はない。Wikipedia によると、ジャスラックはダイヤモンド社に対して名誉毀損訴訟を起こした、ということである。とはいえ、まったく根も葉もない作り話とも思えない。これだけの記事を書かれるだけのことはしていると、私は信じている。

 そして、著作権の保護期間を70年に延長するということは、この組織、そしてそこに群がっている人たちを、これまで以上に太らせる “だけ” という気がしてならない。そういえば、どこかのスポーツ団体の役員が不明朗なお金を使い方をして逮捕されるという事件もあったな~。

 権限、権力、そして資金が集まれば、人は往々にしてその資金が自分のもののように錯覚してしまう。それはこれまでの歴史でも、現代社会でも証明している。だから、そういう錯覚が起こらないようにする “システム”、集まった資金を本来の目的以外に地は使えないようにする “システム” を作ることが大切なのである。

 そういった基本的なシステムが存在しないまま、これ以上怪しい団体に、これまで以上にお金が集まるような “著作権保護期間の20年延長” には、断固反対である。

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2007/02/05

漫画家は蕎麦屋より偉いのか

 産経新聞 Web 上で “知的財産” の特集をしている。著作権の期間を50年から70年へ延ばそうという話もあり、私も興味深く見ている。

 “知的財産” の特集は、ITMedida サイト上でも行われている。今日のタイトルを見て、私が何のことを話そうとしているのか気がついた方も多いと思う。ITMedia で紹介されたシンポジウムにおける 松本零士氏 の発言についてである。

 司会の 中村伊知哉氏 の

「自分の死後、家族の生活を守りたいと思うのは、作家もそば屋やうどん屋の主人も同じ。作家の遺族は著作権法で保護されるが、そば屋・うどん屋の遺族を守ってくれる『そば屋法』や『うどん屋法』はない」

という発言に対して、松本零士氏 が、

「そばやうどんと一緒にしてもらっては困る。作家の作品は残るが、そばやうどんは私にも作れる」

と言い返した部分が、私にはどうしても無視することができなかった。このシンポジウムの記事にトラックバックをしているブログを見ても、この点を批判しているブログが多かった。

 この発言部分がこのシンポジウムの本筋ではないし、著作権の保護期間の延長議論の本質でもない。そのことは私もよくわかっているつもりである。

 しかし、あからさまに “作家” が作家以外の職業より優れている、という趣旨の発言をされては、発言をした人が推進している案(この場合は70年に延長)を、私は支持できない。70年への延長が単に 「作家の俺は、他の職業の者より優れているのだから、もっと経済的な恩恵を受けるべきである」 としか聞こえないからである。

 どうも、有名人は自分を特別視する傾向にあるのが、私には気になる。以前、島田紳助氏と松本人志氏がやっていた深夜番組のことである。両者が 「うちら有名人は、免許更新の時の講習は、個別に個室でやるべきだ」 という趣旨の会話をしていた。この会話だけというわけではなく、だんだんとこの二人の思い上がった会話が耳につくようになっいった。そして、二人のうち一方でも出ている番組は見なくなっていった。

 話の内容が “著作権” の話からずいぶんそれてしまった。しかし、まず、気になったのが、著作権の期間を20年延ばそうとしている人たちが、先の思い上がっているように聞こえる発言をする人や、著作権で不条理に稼いでいる団体の人たちかと思うと、私は単純に “延長反対” と叫ぶしかないと思っている。

□ □ □ □ □ □ □ □ □ □

追記: 松本零士氏のこの発言に、何でここまで過敏に反応してしまったのか、自分なりに考えてみた。

 思い当たるのは、私がテスターだったことである。私がテスターだったころに、一部のプログラマー出身のマネージャからよく 「テスターなんて誰でもできる。」 といわれたものである。

 そりゃ~、開発中の製品をつかって何らかの作業をしていれば、小さいバグの一つや二つを見つけることもあるだろう。それをもってして 「テスターなんて誰でもできる。」 というのであれば、「そばやうどんは私にも作れる。」 という発言と同じである。

 漫画家が趣味で作った蕎麦が果たして商売になるのか?  同じように、たまたまバグを見つけるのではなく、計画的にかつ効率的にバグを見つける、もしくはバグがないことを見極めることが、本当に 「だれでもできる」 のか?

 “自分が他人よりも優れた仕事をしている” と思いたいがために、他の職業を自分のやっている仕事より劣っているように思わせようとしているとしか、私には思えない。

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2007/01/06

【思い出のアニメ】 宇宙戦艦ヤマト

 記憶にある中で最初にハマったアニメが、この “宇宙戦艦ヤマト” である。今度、大型プラモデルが発売されるそうである。高額プラモデル系の商品は、“機動戦士ガンダム” 関係でずいぶんと売れているらしいから、そのへんに インスパイア された結果なのだろうと想像している。同じバンダイからの発売であるし。

 子供の頃はずいぶんと ヤマト にお金を使ったものである。主に、レコード と 映画であったが。映画公開の初日に始発電車で映画館に行って並んだりもした。(さすがに徹夜で並ぶことはなかった。) サウンドトラックレコードもほぼすべて買っていた。“交響組曲ヤマト” はよくできていたと思った。(レコードは今でも実家の本棚にひっそりとしまわれていたりする。) 後年には、テレビ放送をすべてビデオテープに録画したりもしていた。

 さすがに今は、上記のプラモデルを買うほどの熱気は持ち合わせていない。それでも、「このプラモデルはけっこう売れるんだろうな~」 とは予想している。それほどに最盛期の頃の “ヤマト ブーム” は熱かった。

 ヤマト 以前にも、“ガッチャマン” や “マジンガーZ” といったSF物、戦争物はあった。それらの作品に比べて、ヤマトはより高い年齢層をターゲットにしていたと思う。生身の人間が何十メートルもジャンプしたり、絶対に長距離飛行や方向制御のできそうもない握りこぶしが自由自在に空を飛ぶ、といった一目で “無理がある” ことがわかるそれまでのSFアニメから、ヤマト は確実に進化していることを、当時、小学生高学年であった私は感じ取っていたのだと思う。“波動エネルギー” や無理のない人間の身体能力、といったものに魅力を感じていたんだと思う。

 もちろん、ヤマトのミサイル一発で敵戦艦は沈み、何発ミサイルを受けようとヤマトは沈まない、といった “ご都合主義” は、ヤマト にもあった。しかし、そんなことも気にならないくらいに、当時の ヤマト には確かに魅力があった。

 ヤマトもご多分にもれずに、その後シリーズ化されていく。私も常にリアルタイムで、ヤマト を追いかけていた。しかし、自分の年齢が上がって、いろいろなことがわかってくると、ヤマト という作品シリーズが行き詰っていくことが、私にもわかってきた。もっと資質の高いプロデューサーが ヤマト にかかわっていたらな~、と思ったりもしている。

 一部には、ヤマト を復活させる計画もあるようだ。しかし、プロデューサーの逮捕があったり制作会社が新シリーズで倒産したり、予定通りに公開されなかったりして、あまりうまくいってないようである。せっかくの優れたコンテンツであるだけに残念である。

 仮に復活劇がうまくいったとしても、私自身は昔のように熱中することはないと思う。“宇宙戦艦ヤマト” は、すでに私の中では “古き良き思い出” として懐かしむ存在になっているからである。

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2007/01/04

年賀状

 皆さんは年賀状を出しているだろうか? 私は、年賀状だけは毎年出すようにしている。使うのは “年賀はがき”。足りなくなったときだけ ハガキサイズの写真用紙 を使っている。

 特にポリシーがあって年賀状を毎年続けているわけではない。ただ、せめて一年に一回ぐらいは何らかの連絡を取っていたい、と考えているだけである。年賀状をやり取りしている人の中には、私が幼稚園児だったときの先生や小学校一年生の時の担任の先生も含まれている。かれこれ35年以上年賀状を出し続けていることになる。

 私から年賀状を打ち切ることはなく、年賀状を出さなくなるきっかけは、相手から年賀状が来なくなるか、相手が転居して年賀状が届かなくなったときである。35年以上続いているということは、相手も律儀に35年以上年賀状を毎年送ってくれているということである。

 ここ15年は自分から相手を増やすことはなくなった。最近、年賀状を出す相手が増えるのは、相手から送ってきたときである。そして、前年にもらった相手には、翌年にはかならず出すようにしている。そうやって年賀状を出す相手が増えたり減ったりして、今年出した年賀状の枚数は30枚であった。

 毎年何人かからは、電子メールで年賀状をもらう。電子メールの本文で挨拶をする人もいれば、年賀状サイトのURLが記述されているタイプもある。もらった相手には私も電子メールで返信している。しかし、翌年に電子メールでの年賀状をこちらから出すことがない。日常的な道具である電子メールでは、年賀状をどうも出す気にならない。逆に言えば、はがきを出すということがそれだけ特別なことになったということか。

 パソコンを買う前の大学生までは、一枚一枚手でしこしこ書いていた。当時から30枚前後であり、一週間とか十日とかそれなりに時間がかかっていた。

 それが、パソコンを所有するようになって、ずいぶんと楽になった。最初の年でこそ、住所をすべて登録するのに時間がかかった。それでも二~三日だった。翌年からは年賀状を作るのに一日あれば十分となった。最初は、ドットインパクトプリンターでモノクロ印刷。次は、モノクロインクジェットプリンターでの印刷。子供が生まれてからは、カラーインクジェットプリンターで写真付印刷。カラーインクジェットプリンターになってからは、写真屋に依頼しなくても、けっこう高画質な写真付年賀状ができてしまう。しかも、今のプリンターなら余白なしで印刷ができる。インク代を考えても、ま~、安くて高画質な年賀状が作れていると思っている。

 私の子供も今年から、自分の年賀状は自分で作ることになった。去年までは、母親が作った年賀状に一言書くだけであった。今年は、小さく写真を印刷した後、お手製の芋版で真ん中に大きく版画を押していた。仕上げにはサインペンでカラフルに文字を書いていた。当分は、ほとんどが手書きの年賀状を作るのだろう。本格的にパソコンを使って、子供が自分の年賀状を作るようになるのは何歳ぐらいなのかと考えたりする。今でも日常的にパソコンを使っているので、小学生高学年ぐらいからパソコンですべて年賀状を作るようになるかもしれない。もしかしたら、電子メールで年賀状を済ませるようになるのか。あるいは、「年賀状なんかダサい」 といって年賀状作りをやめてしまうのか。私には意外と興味がある。

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2006/10/31

敬語システムの崩壊

 あいかわらず(笑)、日本語が乱れているそうである。

 そうおもって、Wikipedia で調べてみると、“日本語の乱れ” と題してこんな記述があった。それによると、言語学においては “乱れ” という概念はなく、“変化” があるだけである、ということである。この考えは私の感覚にとてもよくあっている。

 では、誰が “日本語が乱れている” といっているのか? やはり Wikipedia によると、個人のいわゆる 「最近の若い者は」 的な感覚と、さらに政府による国語統制による影響らしい。
つまり、時の権力者が国民統制の一つの手段として “国語統制” を行い、そこからの逸脱を “日本語の乱れ” と称して弾圧を行っている、と私は理解した。そういう話を聞くと、なぜテレビがやたらと “日本語が乱れている” と叫んでいるのかが良く理解できた。テレビ局は政府&官僚が好むことを放送する媒体だからである。

 また、古くは清少納言が “日本語が乱れている” と嘆いているらしい。こうなると、“日本語の乱れ” は1000年続いていることになり、1000年続いたことが数年で収まるとは到底思えないし、つまりは日本語は “乱れている” 姿が本来の姿であるということである。

 論理的に言えば、日本語は統制されていたほうが話が伝わりやすい。正しく物事を伝えるためには、一つの言葉に一つの意味しかなく、その意味を誰もが知っている状態が必要である。
 それでも、私は “日本語が乱れている” 状態のほうが好きだ。仮に、女子高生が私の理解を超える 「あげ」 だの 「もる」 だの 「がちゅ~りからめし」 だのと、しゃべっていても、そこから新しい何かが起こりそうで、私は好きである。

 少し前に敬語の分類が 三 → 五 に増えた。詳細については こちら を参照されたい
私なんかが見ると、「三でもよくわからんのに、五に増やしてどうする?」 と思ってしまうのだが、学者によるとこの方が論理的に文章が整理しやすかったり、誤用を指摘しやすかったりするそうである。

 言語学者や言語を商売にしている作家などには、なじみのある話題で適正な敬語の使い方が体に染み付いているのかもしれない。しかし、少なくとも私には、政府&官僚のさだめる正しい敬語の使い方は、したくてもできない。
 そもそも、敬語は日本社会における身分制度に基づいて構築されたものである。現在の(少なくとも建前上)には身分・階級がなくなった社会においては、敬語は不要なのではないか?と私は考えている。

 状況によって、丁寧になったり、尊敬したり、へりくだったりと、ムリに使いにくくすることはないだろうに、と私は思っている。
 私の意見は、もっと単純にせよ、である。  「敬語は一種類として、とにかく敬語と思われる何かを使っていれば、その人は丁寧に話をしている。」 でいいではないか。例えば、「お茶を入れた」 に対して 「お茶が入りました」 でも 「お茶をお入れしました」 でも、どちらでもよいではないか。そんなことを言うと “いしかわじゅん氏” あたりに、「日本語が間違ってる!」とののしられそうであるが。(笑)
(余談になるが、BSマンガ夜話で “いしかわじゅん氏” が、映画監督の “大林宣彦氏” に映画の技法について、“それは違う!” と自信たっぷりに反論していて、見ている私はなんだかこっけいに感じた。)

 私は敬語を正しく使う自信がない。おそらく大半の人が自信をもって、正確に敬語を使うことはできないのではないだろうか? 言語学者や作家など、一部の人たちだけが正しく使えるようなシステムは、すでに崩壊しているといえるだろう。
 パソコンに例えれば、政府&官僚が 「Windows では、パソコンの使い方が間違っている。Linux (もしくは BTRON)こそが正しいパソコンの使い方である。」 として、国民に押し付けているようなものだ。(Windows を皆がほんとうに正しく使えるかどうかは置いとくとして)  Linux は優れたOSであることは事実である。しかしながら、Linux を日常的に使うためには、多くの専門的な知識を必要とする。少なくとも、Windows ほどに、ほいほい使えるものではない。

 現在の年金制度といい、ゆとり教育といい、官僚は崩壊しているシステムに固執するのが好きだ。自分達が間違っていたことを認めたくないからである。
 しかし、官僚もしょせんは人の子。間違いも失敗もする。それを前提に官僚システムを再構築して、“官僚・公務員は 『公僕』 つまり 『国民に奉仕するもの』” 、“恣意的に権限を用いない”、“官僚も公に個人で責任を取る”、といったシステムに改めていかなければならないと、私は強く考えている。

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2006/10/10

アメリカのレストランでの注文の心得

 なんどもアメリカに行っている人には当たり前だろうけど、アメリカのレストランで注文するときには少々コツがいる。まあ、コツというほど大げさなものではないのだが。
そこで、今回は私が自分で会得した私なりの心得を紹介したい。


 その1: アメリカのレストランではパスタは注文するな
アメリカ人に “アルデンテ” は理解できないと思え。アルデンテを出されたアメリカ人は、「このパスタは、まだ茹で上がっていないじゃないか ヽ(`Д´)ノ」 と怒り出す。つまり、アメリカで出されるパスタは、ゆですぎのべろべろでのびきった麺となって出てくる。


 その2: 普通のレストランでは味に期待するな
高級レストランではもちろんおいしいものが出てくる。しかし、普通のレストランでは期待すると必ずガッカリすることになる。私が説明でよく使う言葉、

 『アメリカのレストランで出る料理は、“素材の味がしない” か “素材の味しかしない” のどちらかである。』

素材の味を生かして深い味わいがある料理、といものについぞ出会った記憶がない。


 その3: 自分の適量は値段で決めろ
アメリカのレストランで出る料理の量は、料理が違ってもだいたい値段に比例する。$10の料理は、おおよそ$5のほぼ2倍ある。
一番笑ってしまったのがある日本レストランで出された “うな重” である。

 『並:乗ってるウナギが1本、 上:乗ってるウナギが2本、 特上:乗ってるウナギが3本』

をいをい、特上・上・並 の違いは質じゃなくて量かよ ヾ (゚Д゚ ) といっしょに食べに行った友人と小声で突っ込んでました。


 その4: テリヤキは注文するな
アメリカではなぜかテリヤキがはやっている。中身は当然 牛、豚、もしくは鶏 である。しかし、日本の照焼きを想像して注文をしてはいけない。あれはまったく別な物体である。
タレがしょうゆベースの和物ではない。プリンの上からかけるとカラメルとか、リブロースステーキに絡めてあるソースのような、みょうに甘ったるいタレがかけてある。要注意である。

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2006/10/06

Everything all right?

 10年ちょっと前、1年半ほどアメリカで生活をしていた。そのときの面白い話である。

 アメリカにも少数ではあるが日本語を学んでいる人たちがいる。
その日はたまたま夕食を食べに行ったレストランで、日本語を勉強中というウェイターが担当しているテーブルに当たった。

 アメリカではウェイター・ウェイトレスは店から支払われる賃金だけではなく、客が置いていくチップも重要な収入である。そのため、各ウェイター/トレスには担当テーブルが決まっていて、そのテーブルをサービスする代わりにそのテーブルのチップをすべて得ることができる。だから、担当でないウェイター/トレスにいくらお願いしても何もやってくれないのが当たり前。逆に、担当のウェイター/トレスはより多くのチップが欲しいから全力を挙げてサービスをする。

 サービスの一環なのだろう。注文した品がそろい、食事を楽しんでいると、ころあいを見計らってウェイター/トレスが
 “Is everything all right?” とか “Is everything OK?”
とか聞きに来る。
日本のファミレスであれば、「ご注文の品は全部おそろいでしょうか?」 みたいなものである。

 ところが、その日のウェイターは日本語を学んでいた。私たちが日本人だと知ると、盛んに日本語を使って話しかけてくる。
そして、品物もそろい、食事を楽しんでいると、そのウェイターが来て

 「ダイジョウブデスカ?」

私たちは ∑( ̄□ ̄;)ビックリ。
もしかしたら、なにか異物を混入させてしまったのか? はたまた、痛んだ食材を使った料理を出されてしまったのか?などなど、私たちはお互いに顔を見合わせながらどきどきしてしまいました。
しかし、よくよく確かめてみると、注文した品が全部そろっているかの確認をしにきただけらしい。どうやら

 “Is everything all right?” ⇒ 「すべては大丈夫ですか?」 ⇒ 「ダイジョウブデスカ?」

と直訳(?)してしまったらしい。なんとも人騒がせな・・・。
もちろん食中毒などのトラブルは一切なかった。(笑)

 しかし、よくよく考えてみると、自分が英語を使うときに同じ間違いをしている危険性は・・・、すごく大きい。
気をつけねば・・・。_| ̄|○
そういえばその昔、英会話教室の先生に 「ピーナッツ」 と言ったら、日本語式に “ピー” にアクセントを置くと、アメリカ人には 「ペニス」 に聞こえるから注意しろって言われたっけ。
大学のときの化学の教授は、イギリスに行って “ウェスト ケンシントン” まで切符を買おうとした、駅員にぜんぜん通じなくて、隣のイギリス人が “ウェスギケンシン” といって切符を買っていたので、まねして 「上杉謙信」 といったら切符が買えたといってたな~・・・。
言葉って難しい・・・。

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