カテゴリー「文化・芸術」の24件の記事

2010/01/01

今年もまた同じことを書いてます (^_^;)

新年あけましておめでとうございます。

 さて、新年1発目の記事には、新年を含めて日本の伝統行事の私感について書いてみようかと思った。とりあえず、去年の1発目の記事にはどんなことを書いたのかと見返してみると、今回自分が書こうと思っていた内容がそのまま書かれていて、思わず苦笑いしてしまった。

 もしやと思って、2008年の最初の記事も見返してみると、やっぱり同じことを書いていた。
○| ̄|_

 2007年までさかのぼると、少しちがった内容でちょっとほっとした。

 そういえば、私の子供は昨年の年賀状から、自分独自の年賀状を印刷するようになっていた。今年子供が印刷したの年賀状の枚数は、我が家で印刷した年賀状のほぼ半数で、私とカミさんが印刷した枚数の合計とほぼ同じだった。交友範囲がどんどん広がり、年賀状を出すモチベーションが一番高い時でもある。思い出せば、私が一番年賀状を多く出していたのも、今の自分の子供の年頃だったと思う。

 私の子供の年賀状の枚数は年々増えていっているようだが、日本全体で見るとやはり年賀状の配達枚数は減っているようだ。

 これまた毎年書いていることだが、今は電子メールという郵便物よりはるかに手軽で同等以上の情報量を持つメディアが存在する。しかも郵便物よりコストがはるかに安い。そんな安価で便利なモノがあるのに、レトロでトラディショナルで高価な媒体を使う意義を見出せなくなっている人が増えるのは、必然であるように思う。

 それだけ価値の高い電子メールが完全に郵便物に取って代わっていないのは、ひとえに電子メールを限られた人しか使えないからに他ならない。郵便物であれば、老若男女誰もが受け取ることができる。

 逆に言えば、大多数の人が電子メールをなんの苦労もなく受け取れるようになれば、物理的な郵便物は特定の用途にしか使われないニッチな媒体に成り下がってしまうに違いない。年賀状もその “ニッチ” な用途に入りそうな気がする。

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2009/02/07

むやみな成長よりも永続的な持続性を私は選びたい

今の資本主義はもう、やめてくれ
“森の国”の思想が次の経済システムを作る

 安田喜憲(国際日本文化研究センター教授)
 篠原匡(日経ビジネスオンライン記者)
  日経ビジネスオンライン [2009年2月4日]

 題材が宗教の話しなので異論のある人も多いだろうが、私にはほとんど賛同できるないようだった。むしろ、私が長いことモヤモヤと感じていたことを、明確な言葉にしてくれたと感じている。

 私も宗教を否定するつもりはないし、必要なものだと思っている。ただ、私自身は神や仏や宗教を信じていない。私は現実に自分で見聞きしたものを信じることにしている。そんな私だからこそ、上の記事になおさら賛同できるのかもしれない。

安田 マルサスは「人口論」を出した時にこう言いました。「神の命の通り、一生懸命働いていれば豊かになれるはずだ」と。「貧しい人間は神の命に背いた人間であり、罰を受けているんだ」と。

 3ページ目のこの考え方は、私が初めて目にした言葉であり、同時になぜ今の米国的資本主義が大問題だと感じるのかを教えてくれた。

 日本にも 『働かざるもの、食うべからず』 という言葉があるが、これには神といった人が介在できないモノは含まれていない。同時に過程に対する結果を表している。

 それに対して上記の言葉は、結果に対して人ではどうしようもない神を持ち出して、裕福そのものを無条件に肯定している。これではルールやモラルを無視してでも 「裕福になったものが正しい」 という価値観が生まれたとしても不思議ではない。

この市場原理主義の考え方は、大量の情報を持つ人間、つまりカネをたくさん持つ人間にとってメリットがある。社会のエリートをサポートするには都合のいい理論、支配者にとっては都合のいい理論でしょう。

 やはり3ページ目の、この部分などは、まさに私がここ数年ずっと感じてきたことだ。小泉元首相が進めた構造改革も、結局は支配者、為政者にとって都合のいいモノでしかなかった。

 4ページ目では、「日本はもともと成長よりも持続させることを大切にしてきた」 ことを説明している。私も日本はふたたび旧来の価値観に戻すべきだと思っている。「成長しなければ意味がない」 という考えの否定だ。

 以前どこかの記事で 「京都は同じ商売のやり方を続けて、何百年も続いてきたお店が何軒もある」 という内容を読んだことがあった。時代に合わせて少しずつ変えることはあっても、卸値が少しばかり安いからといって長年商売をしてきた相手を変えることはないという。そうやって数百年続けてこれたのだ。

 成長を追い求めたあげく、数十年からせいぜい百年で行き詰った金融資本主義と比べれば、どちらが社会にとって適したシステムなのかは、私にとっては明らかなように思うのだが。

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2008/12/17

大河ドラマ “篤姫” 全50話を見終わって

 人気があった NHK 大河ドラマ 『篤姫』 が最終回を迎えた。私は、再放送から見始めたので、全50話を2ヶ月で見るという、短期集中型で見た。おかげで、初めのころの内容を忘れることなく、最終回を見られた。

 視聴率や世間での取り上げられ方を見ると、このドラマ 『篤姫』 は成功だったといってよいだろう。

 その成功の要因の一つは、“わかりやすさ” というのが、共通した評価のようだ。私も、そう思う。

 実際に私も、この 『篤姫』 を見ていくことで、なぜ幕末があのような流れになったのかが、より明確に理解できたように思う。たとえば、、“井伊直弼” と “安政の大獄” は、私の頭の中では、はるか大昔の出来事のように感じていた。その一方で、“明治”、“西郷隆盛”、“大久保利通” は、比較的近代の事だと理解している。それが今回、西郷隆盛が安政の大獄で処分されたエピソードを見て、安政の大獄が実は近代の出来事であることが、私の頭の中で認識できるようになった。

 限られた放送時間の中でわかりやすく描こうとすれば、物事を一面的にしか見せられないといった問題もあったように思う。それでも、わかりやすく描いて、多くの視聴者をひきつけたことは評価できると、私には思えた。

 たまに、「わかりやすいモノは、レベルが低い。レベルの高いものは、難解なモノ。」 という意見を聞く。しかし私は、「『レベルの高いものは難解』などという人は、わかりやすくモノが作れないレベルの低い人の言い訳」 だと思っている。

 とはいえ、しょせんはドラマ。あちこちで見られる “演出” もっと悪く言えば “ご都合主義” があからさまに見られたことには、私も苦笑せざるを得なかった。

 悪役っぽく登場した人物たちが、退場するときには “いい人” で終わるのは、そのいい例だろう。篤姫に最初冷たく当たった “英姫”。安政の大獄を行った “井伊直弼”。三人の将軍に渡り大奥を取り仕切り当初篤姫と対立した “滝山”。徳川家茂を挟んで篤姫と対立した “和宮”。和宮を守るために大奥に来た和宮の母 “観行院”。などなど

 皆、篤姫とかかわったことで、生き方・考え方が大きく変わったという演出をすることで、篤姫の影響力の大きさを表現しようとしたのだろう。ただ、私にはあまりにもあからさますぎて、苦笑するしかなかった。

 ドラマから離れて、歴史的な観点から見ると、私には篤姫を全肯定しすぎてる点も、気になった。

 例えば、幕末の頃の幕府の財政は逼迫していたにもかかわらず、強行に大奥の現状維持にこだわった篤姫の行動。自らの家、家族、身内を守ることは、人としてごく当たり前のことで、それについて批判するつもりはないし、そもそも批判できるものではない。だが、結果論ではあるが、大奥の固執が徳川政権を縮めたのではないかと、私には思える。

 国の借金が膨れ上がっているにもかかわらず、予算の獲得が自分の出世に重要なために、膨大な予算を要求して、与えられた予算はなにが何でも使い切る役人の姿とダブってしまった。

 この件に限らず、老中達の先例主義、自らの地位保全のための行動、都合の悪い情報の隠蔽、といった、現在の政治状況を髣髴とさせる描き方は、篤姫の製作者側が意図的に行っている演出としか思えなかった。

 なんだかんだ言ったが、篤姫 全50話を見てよく出来ていると感じた。ひさびさに NHK 受信料を払っていて良かったと思えた。

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2008/08/04

ワンダーフェスティバルに行ってきました

 遠くにいる友人が、東京港臭い展示場でやるワンダーフェスティバルに来るというので、友人に会うついでに、私もワンダーフェスティバルを見てきた。

 世間一般には、“エスカレーター事故” の方ですっかり有名になってしまったワンダーフェスティバル。私は、会場時間の10時にようやく最寄の駅に到着したので、事故の現場に立ち会ってはいない。だが、事故は私の友人の目の前で起こっていた。友人は、一瞬何が起こっているのかわからなかったといっている。それほど一瞬の出来事だったようだ。

 もっとも、事故についてはあちこちのニュースやブログで詳しく報告されているので、ここでそれについて言及するつもりはない。(と言いつつ、現場検証をしているところの写真はしっかり撮っていたりする)
200808034

 目的地の駅に着いて、まず驚かされたのが、入場の順番を待つ人の列だった。

 10時に開場するというので、その時間をめどにして、少し待てば簡単に入れるだろうと高をくくっていたら、甘かった。 orz
人の列が延々と続いていた。後で聞いた話では、ゆりかもめの二駅先まで列が続いていたとかいなかったとか。

 事前に昨年の入場者が4万5000人、今年の目標が4万4000人という数値は知っていたが、4万人がどういうものなのかは、私の想像をはるかに超えていた。

 はるかかなたの最後尾まで行くのがイヤになった私は、近くのパナソニックのショールームを見学して、それでも列が終わりそうにないので、サイゼリアで早めの昼食をとった。

 サイゼリアで1時間ほど時間をつぶした11時50分ごろ、ようやく最後尾のカンバンが目の前を通り過ぎて行った。

 結局、私が開場に入ったのは12時30分ごろだった。

 入場したのは屋上のコスプレ広場だった。何人ものコスプレーヤーが壁沿いに配置していた。面白かったのは、撮影の順番を待つ人の列の長さが、そのコスプレーヤーの人気のバロメーターに見えたこと。露骨に人気投票になってた。人気のあるコスプレーヤーのところには20人以上並び、人気のないコスプレーヤーは暇そうにボォ~っとしてた。

 コスプレーヤー達を一通り拝見した後、展示室内に入った。入ったところで友人と合流して、開場内部はすでに一通り開場を歩き回って目的を済ませた友人と見て回った。

 一通り見て回って感じたのは、「フィギュアが好きで、自分が欲しいものを作っている人達」 と 「ビジネスとして成功するから、人気のあるキャラクタを量産化して売る人達」 に明確に分かれているな、ということだった。

 私の世代だと泣いて喜びそうなマイナーなキャラクターやアイテムを作って売っている人たちがいた。例えば、 宇宙戦艦ヤマト に出てくる ガミラス星人 が使う持ちにくそうな銃 200808031 や、冥王星基地に設置された反射衛星砲と反射衛星 200808032 、さらに反射衛星砲のトリガー 200808033 などだ。しかし、最近の若い人たちから見れば何がうれしいのかわからないだろうな、とも思った。

 また、個人的に “ゴジラ” シリーズや、“バーチャロン” シリーズのフィギュアが並んでいたのも楽しかった。

 お金を出してでも欲しいと思ったものはなかったが、一つだけグラッと来たものがあった。写真は撮らなかったのだが、直径30cmほどの丸まったダンゴムシのフィギュアだ。ミョ~にリアルで、「そうそう、こんな感じだよね。」 と思わず欲しくなってしまった。なにしろ、普段からアリを観察するために四六時中地面を見回しているので、ダンゴムシもよく目にする。見慣れたダンゴムシの巨大サイズが目の前に出てきたので、親近感が湧いたのかもしれない。

 ただ、値段が値段だったので買うまでにはいたらなかった。また、カミさんや子供が嫌がるだろうな~というのもわかっていたのも、買えなかった理由の一つだった。

 結局私は見て回るだけで、何も買わずに会場を後にした。入場料を払っているので、ワンダーフェスティバルでしか買えないアイテムを買わないのももったいなかったのかもしれない。

 そうはいっても、はるか以前に大金を使って UFOキャッチャー で(もちろん欲しくて)取ったフィギュアが、結局家では飾られることもなく、段ボール箱にしまわれているのだ。これ以上、段ボール箱の中のアイテムを増やす気にはなれなかった。

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2008/03/01

著作権についての一般人視点からの記事

人生の諸問題    
「テレビ」と「ウェブ」と「著作権」と
岡康道、小田嶋隆、清野由美
NBonline [2008年2月29日]

 若干、「そこまで言わなくても」 とか、「それはちょっと違うんじゃない」 と思うところもある。例えば、

小田嶋 「例えばソフトウエアのウインドウズとか、グーグルとか、でかくなるビジネスって、今はだいたい、タダで配られる方向でしょう。」

とか。いやいや、Windows はタダでは配られてませんよ、と。(汗)  パソコンに始めからインストールされていますが、パソコンの代金にきちんと含まれていますから。(汗)

  それでも、おおむね賛同できる内容だ。

  “著作権” という権利に対する説明として、

小田嶋 「もともと著作権という発想がどこにあったかというと、海賊版を作る人たちがいて、そういう人たちから作者を守るために生まれた法律であって、本来ユーザーを縛るためのものじゃないんですよ。(中略)
当初はすごく悪意のある海賊版業者が資金とネットワークを持って、複製を犯罪的に作っている、ということを想定してできた権利だったんだけど、今は素人を相手に、お前らどれだけコピーをするか分からないから、コピーさせないぞ、みたいな縛りに変質してきているでしょう。」

というのは、よくわかる説明だ。

  他のシリーズ記事で取り上げられている “海賊版により中国の動漫ブームができた” という話を出して、より多くの人に目にしてもらうことで、さらに大きなビジネスに結び付けられることを示している。

  “デジタル万引き” についての内容も、普通の人の感覚で書かれていて共感できる。

小田嶋 「雑誌社からすると、本当は売れたはずなのに、という理屈なんだけど、でも要するに120ページからある雑誌の中の1ページしか欲しくないような雑誌を、あんたたちが作っていたわけでしょうという。たとえば20ページ分撮らなきゃいけないようなら買うでしょう。」

  良い悪いは議論のあるところだろうが、デジタル万引きの本質を突いている意見だと、私は思う。

「たとえばドラマで女優が着ているスカートがほしくなって、それを買う。そういうようなことが起きるんじゃないか、と言われているんだけど、そんなに買うかね、いちいち。」
小田嶋 「あれはうそですよ。」

  私もそう思う。私が好きな 銀河英雄伝説バグダッシュ という情報部の人物がいる。その人物の台詞に、

「世の中に飛び交ってる情報ってものには、必ずベクトルが掛かっているんだ。つまり、誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり、その情報の発信者の利益をはかる方向性が付加されている。それを差し引いてみればより本当の事実関係に近いものが見えてくる」

がある。私が好きな台詞の一つだ。政府やテレビ局が必死に地デジを宣伝する裏には、やはり何らかの彼らにとっての利益があると考えたほうがわかりやすい。

小田嶋 「ウチの子供なんかリアルタイムでテレビを見ていない。見たいものがある場合は、それを録画して好きな時に見るというスタイルが定着してる。CMどころか、番組全体をスキップして見てるわけだからね。」

  我が家でもまったく同じだ。たまにリアルタイムで放送を見ていると、CMがスキップできずに家族みんなでいらいらしている。(笑)

  次回の “次回、しぼみそうなテレビ広告” も楽しみだ。
(・∀・)

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2008/02/25

腐女子の実態に迫る?

 いや~、なんともすごい分野があるものだ。

裸の男子の汗をふき、「ヘブン顔」を勝ち取れ
――バンダイナムコ「乙女ゲー」開発秘話

 ITmedia News [2008年2月22日]

 別に私はこれが特殊なものだとは思わない。私を含めた男が、“女性の胸に顔をうずめてみたい” と思ったり、“膝枕してもらいたい” と思ったりするのと同じようなものだと思うからだ。

 と同時に、私には理解できない世界でもある。社内男性陣の、

  • 「これ……面白いの?」
  • 「……もう、好きにやってみればいいじゃない」

という反応のほうが、やはり私には理解しやすい。

 もう一つ面白く読んだのが記事の下にリンクしてある座談会だ。

緊急座談会:
激白! 腐女子のホンネ

 ITmedia News [2007年12月7日]

 昔は今よりもずっと濃いヲタクだった自分を振り返りながら読んだ。

 声や声優が重要な要素であるというのは、私には遠い世界だ。男の側でも声や音楽にこだわる人は多い。だから、ゲームメーカーもゲーム内のボイスや音楽にはずいぶんと気を使っているようだ。しかしどういうわけか、私は昔から声や音楽が気になったことがない。

 逆に 「デッサンとか狂ってると萎えますよね。」 という意見にはかなり賛同できる。最近は、顔はすごくうまくかけているのに、全身は妙にバランスが悪いマンガをよく見るし、とても気になる。

 どんな彼氏がいいか、という質問に対して、

  • 自分を放っておいてくれる人
  • 自分の趣味を許してくれる

という話が出ている。うちのカミさんはものすごく英語が好きで、休日に英語教室に通っているぐらいだ。私はといえば、「英語なんてなければいいのに」 と思うぐらい英語が嫌いで、選択科目だった高校三年生の英語を取らなかったぐらいだ。それでも、カミさんが好きな英語に金や時間を使うことは気にならない。積極的に協力もしていないが、反対もしていないといったところか。ということは、私は 「包容力のある男」 ということになるのだろうか。

 まぁ、私は単に、自分が好きでやっていることにあれこれ口出しされたくないので、他の人が好きでやっていることに口を出さないだけなのだが。

 座談会の最後で 「別のカップリングの人たちが集まると、(中略)、お互い気をつけて話すんです」 という部分がある。これは私も同じだ。同じガンダム好きが集まったとしても、こだわっている部分が違えば、やはりそれなりに気を使って話をする。

 だから、男性ヲタクについてのコメントも、やや行き過ぎた人たちに対するものだけだったの残念だった。彼女らがコメントした人たちは、腐女子サイドで言えば

  • 自分の描いたものを声優さんに送る人
  • 作家に送る人
  • 電車やバスの中で堂々と同人読んでる人

のグループに入る人たちだ。

 メディアでコメントを求められたときに、どうしても極端な人たちを代表者のようにあつかってコメントをしてしまう。せめて、メディア側の人間がそういう部分に注意を払ってほしかった。

 そういえば、ユーザビリティ テストをしていたときも、被験者が 「初心者には」 とか 「初心者にとって」 など、自分ではなくステレオタイプな初心者を引き合いに出してコメントしたときは、要注意だった。

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2008/01/30

作り手のための著作権法とは

 今回の記事は、以前の記事よりはるかに落ち着いて読むことができた。

作り手を“やる気”にさせる著作権とは
――島本和彦氏など語る

 ITmedia News [2008年1月28日]

 世間一般には、

  • 著作権者=儲けている人=クリエイター

という認識が強いと思う。実際、私もそう思っていたし、今でもついつい勘違いしてしまう。しかし、この記事を読むと、多くのクリエイターが実は報われていないことがわかる。

「今の著作権法は、自分は何もクリエイトせずに流通を支配しているだけの人に巨額のお金が渡る。」 (東京大学大学院教授 玉井克哉氏)

 私もこの点が現在の著作権法の最大の問題点だと思っている。クリエイターに対価が支払われ、流通をサポートした人には多少の手間賃が支払われる、というのが本来あるべき姿ではないのか。

 いつの頃か、どこかで頭のいい人が、著作権法の “問題” を見抜き、流通や公開をめんどくさがるクリエイターから作品を買い叩けば、大もうけできるということに気がついたのだろう。

「著作権法にはクリエイターを守る規定がほとんどない。それに手を付けずに権利を主張するのは、旧来のメディア企業が利益を守ろうとイチャモンをつけているようにしか見えない」 (法政大学准教授 白田秀彰氏)

 この意見にも私は大いに賛成だ。確かに、既得権を守ることは個人の生活を守るために必要なことでもある。だが、あまりにも一部の人たちだけで利益を独占して、その他大多数の大きな不利益になる場合は、既得権を排除すべきであろう。

 著作権法には直接関係ないが、

「法学者の意見は必ず現状維持にバイアスがかかっているから信用しないほうがいい。できませんは『やりたくない』という意味だ」 (東京大学大学院教授 玉井克哉氏)

という意見に、「学者は公務員か?」 と思わず心の中で突っ込んでしまった。

 記事の中の細かい法律的な内容については、残念ながら私には判断できなかった。

 また、

「今の段階で著作権法はすでにスパゲッティ状態。これに新たにくっつけるのではなく、著作権法そのものの大改正がまず必要」 (法政大学准教授 白田秀彰氏)

というのが最善だというのはわかる。しかし、私の少ない経験からでも、「難しいだろうな」 と思えた。ソフトウェアの場合、プログラマはつぎはぎだらけになった古いプログラムを捨て、一から新しいプログラムを書きたがる。ところが、たいていの場合は、以前と同等の機能を実装できずに頓挫してしまう。だから、もし本当に大改正をするというなら、

「現行の著作権法は維持し、特別法や契約法で対応すべき」 (早稲田大学大学院准教授 境真良氏、一橋大学大学院教授 岩倉正和氏)

と並行で進めていくべき話なのだろうと思った。

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2008/01/07

ら抜き言葉は、積み木崩し

 以前私は、日本語処理関係の仕事に関わったことがある。そのため、日本語そのもののについて、今でも多少興味を持っている。少し前には、“敬語の破綻” についての記事を書いている。

 この間、こんな面白い記事を見つけた。

コトバの戦略的思考
「ら抜き言葉」
 梶井厚志(京都大学経済研究所教授)
  ダイヤモンド・オンライン [2007年12月11日]

 この記事は、ら抜き言葉 を 「間違った日本語」 とはしていない。「なぜ ら抜き言葉 が広く使われるようになったのか」 を、わかりやすく説明しているところが、私には新鮮に映った。

 そして、“積み木崩し” を例に出して、「実は、どの字が省略されるかは、はじめから決まっているわけではない。」、「他の字が省略されてしまったため、残された字が取り除けない字になる。」 という説明に、私は感心してしまった。
 (もし、“積み木崩し” でテレビドラマを思い出してしまう人は、“ジェンガ” を想像するといいだろう。)

 とはいうものの、私自身は ら抜き言葉 を使うつもりはない。子供の頃からの刷り込みの影響なのか、ら抜き言葉がひどく不自然に感じるからだ。“可能” を表すならば、素直に 「食べることができる」 と表現する。書き言葉ならなおさらだ。

 日本語について、梶井厚志氏は今後も面白い記事を書いてくれそうだ。早く次の記事を書いてくれないかと心待ちにしている。

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2008/01/01

新年明けましておめでとうございます

 2008年、最初の投稿。(と言っても、これを書いているのは、まだ 2007年だったりする。)

 さて、タイトルが 「あけましておめでとう」 というわりに、残念ながら、私には新年を祝う気持ちが、あまりない。二十歳を過ぎた頃から、「年越しといっても、しょせん人が定めた暦の上でのこと。自然界においては、特別変わった日でもあるまいし。」 という、ひねくれた考えをしていた。その気持ちは、今も変わっていない。

 私の実家では年末になると、父親がお正月向けの神棚を作る。正月三が日は、ご馳走をまず神棚にお供えしてから、自ら食する。しかし、私にはその習慣を受け継ぐつもりがない。

 別にお正月を祝う習慣が、悪いとか、間違っていると思っているわけではない。それにはちゃんと意味があり、そういう習慣を受け継いでいく人たちがいたほうがいいと思っている。

 ただ、そもそもそういう慣わしには、根拠となる生活様式があったはずだ。お正月やお盆を家族で祝うことは、農業を生業として、毎日を重労働に追われていた生活様式があってこそ、意味があるものだと思っている。秋祭りなども同様だろう。

 では、今の都会の生活はどうだろうか。会社勤めの核家族が人口のほとんどを占める。会社の多くは週休二日制だ。建前では、農作業のように休みなく労働を強いられる生活ではなくなっている。子供達も学校は週休二日制であり、毎日、農作業の手伝いをさせられる時代ではない。

 そんな時代に、農家が大半を占めた時代のイベントだけが残ることが、私にはひどく不自然に思えて仕方がないのだ。不自然という意味では、クリスマスを多くの日本人が祝うというのも、私にとっては同様だ。だから、私はクリスマスを祝うことも、あまり気乗りがしない。

 一昔前は、お店が大晦日から正月三が日は、お休みだった。今は、大手スーパーなど、大晦日も元日もほぼ平常どおりに営業している。多少閉店時間が早いぐらいだ。コンビにはもちろん年末も元日も関係なく24時間営業だ。

 おせち料理は、正月三が日に食材が手に入らない、普段休めない女性たちを休ませる、といった意味があった。しかし、今や元日から普通に買い物ができ、家電製品、外食、中食により、家事を担当する者も、一年中休めないわけでもない。ならば、日持ちはするが、それほどおいしいとも思わないおせち料理よりも、正月からきちんと料理をして、普段どおりの食事をしたほうがいいと、私は思っている。

 繰り返しになるが、皆がお正月を祝うことが間違っているとは、一つも思っていない。単に私個人にとって、ひどく違和感があるというだけだ。

 ただ、10年後、20年後を考えると、私のようにお正月やお盆を単なる “長期休暇の時期” と捕らえる世代が、増えていくのではないかと考えている。そうなると、今は年末になるとどこでも売られているお正月飾りやおせち料理の食材コーナーは、徐々になくなっていくのではないか。今日、街を歩いていて、そんなことを考えていた。

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2007/09/11

残すべきか、外すべきか

 今回は、アダルトな話。

 私もいちおう男なので、アダルトビデオは嫌いではない。というか、好きな方だ。
(^_^;)

見えない“基準”をのぞく…AV業界モザイク戦争
産経新聞社 [2007年9月10日]

 私が注目したのは、

AV業界関係者は「歌舞伎町などの繁華街では裏DVDが堂々と売られ、ネットでもモロ見え動画が簡単に手に入る時代に規制の意味があるのか。規制があるから暴力団の資金源にもなる」と本音をポロリ。

の部分だ。

 歌舞伎町で裏DVDを買ったことはないが、インターネットで流布しているモザイクなしのアダルトビデオならば、簡単に入手することが出来る。しかも、違法コピーではなく、アダルトサイトが公開しているプレビューなどは無料で見ることが出来る。

 そんな状況が当たり前に感じている私には、「規制の意味があるのか」 という発言と同じ思いがある。

 とはいえ、「現実と合わないから」 という理由だけで、規制を外すわけにはいかない。たとえば、「酒を飲んでも車を運転できるし、みんなやってるから、飲酒運転の禁止は意味がない」 と言ったら、ほとんどの人たちに反発を食らうだろう。飲酒運転は多くの人たちにとって、命の危険に直結するからだ。

 「アダルトビデオのモザイクを外すのは、人命に関係ないだろう」 と言われそうだ。たしかに、人命には直結しないと思う。しかし、社会や文化に影響を及ぼして、日常生活が不快なものなる可能性はある。あくまで可能性だが。

 私個人の意見は、「今の時代、もはやモザイクを外しても問題ない」 と思っている。短期間ではあるが、アメリカで生活した経験からすると、モザイクの有無はそれほど日常生活に影響を及ぼさないと思ったからだ。

 それよりもむしろ、日常生活で目にする性的な描写の規制を、もっと厳しくすることのほうが重要だと感じている。アダルトビデオにモザイクのないアメリカでも、日常生活内の性的描写の規制は、日本などよりはるかに厳しい。

 日本のお役所仕事は、やはりどっかポイントがずれていると感じる。

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