“やさしい” ことが一番大切だとは思わない
遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」
イエスマンの恐怖
遙 洋子
NBonline [2008年9月26日]
前回に引き続き、遙女史の上のコラムから考えさせられたことを、もう一つ記事にしてみた。『やさしさ』 についてだ。
遙女史のコラムで、友人がトラブルに巻き込まれた話がある。はっきりとは書かれていないが、おそらく遙女史はその友人に 「あたなにも非がある。」 といったような話をしたのではなかろうか。だから、翌日に遙女史を非難する電話が友人からあったと、私は理解した。
その友人には、
- 激怒して泣いてくれる人、自分の主張が正しいという人 = やさしい人
- 自分の主張に非があると非難する人 = やさしくない人
という構図が出来上がったのだろう。
当然、信頼できる人たちは、自分に “やさしい人” たちだ。
よくある質問で、「どんな男性を彼氏にしたいですか?」、「どんな男性と結婚したいですか?」 という質問に、一番多いと思われる答えが 『やさしい人』 だ。
私が問題にしたいのは、その “やさしい” の意味だ。
多くの場合に私が感じるのは、
- 『やさしい』 = 自分の要求を何でも聞いてくれる、間違っていても正しいといってくれる
という意味で “やさしい” と使っているケースだ。
別に間違っているとは言わないが、私には大きな違和感がある。
『やさしい人』 の意味も、“自らを犠牲にして、自分に利益をもたらしてくれる人” という意味で使われるケースが多いように思う。
- 終電に乗り遅れたから電話で呼び出しても、真夜中に文句一つ言わずに車で迎えに来てくれる人
- 一緒に食事に行くと、どんな高いものを食べても、ニコニコして食事代を払ってくれる人
- 待ち合わせの場所に何時間待たせても、じっと待っててくれて、文句を言わない人
そんな人たちを 『やさしい人』 と呼び、自分が相手に要求したことが嫌がられたりすると 『やさしくない人』 と呼ぶ。
なんでそんなことが気になるかと言えば、私自身が 『やさしくない人』 と言われ続けたからだ。今もカミさんや子供に 『やさしくない』 と時々言われる。
たしかに、言い方がやさしくなかったな、と反省した時期があって、歳を取ってからは、言い方を工夫するように努力している。
それでも本質は変わっていないと思う。
例えば、子供に “やさしい” お父さんと思われたいがために、子供にとって都合のよい父親になるつもりは、毛頭ない。
子供に泣かれようが、わめかれようが、『夜は早く寝る』、『欲しいからといって何でも買ってもらえるわけではない』、『好き嫌いせずに出されたものは食べる』 といった、子供にとって都合の悪いことでも、私の方が妥協することはない。
子供にとって都合のいい “やさしい” 親になったあげくに、子供が成長したときに、子供が社会に適応できない、なんて結末を、私は見たくないからだ。
人にやさしくされたい、甘やかされたい。人から自分の悪いところを指摘されたくない。と思うのは、当たり前だし、別に間違っているとは思っていない。
だが、やさしさだけを追い求めるあまり、自分にとって厳しいものを排除していくと、結局は自分自身がダメになっていくと思うのだ。
世の中、自分の思うようなることの方が少ない。だからこそ、自分にとって都合のよい “やさしさ” を求めるようになるのも仕方がないことなのだろう。
そんなご時勢だからだろうか、 「“やさしい” ことが一番大切」 「やさしくなければいいけない」 的な風潮あるように感じられる。私には、それがひどく居心地が悪く感じるのだ。
与える側が “やさしい” のはかまわない。
だが、求める側がひたすら “やさしい” ことを求めるのは、そしてそれを冗長するような風潮が、ストレスの多い社会を生み出しているような気がして、仕方がない。
“やさしい” という言葉が好きではない私が、逆に心がけているのが “思いやり” だ。
思いやった結果、やさしく接することもあるだろうし、厳しく接することになることもあるだろう。
思いやった相手にとって、一番良い結果をもたらすと思うことを、私はするように心がけている。それは、“甘やかす” ことかもしれないし、“怒る” ことかもしれない。少なくとも、私にとっては “思いやり”≠“やさしさ” なのは確かだ。
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