カテゴリー「生き方」の38件の記事

2009/01/28

「英雄を必要とする国が不幸なんだ」

 最近毎週 NHK が放送している 『世直しバラエティ カンゴロンゴ』 を見ている。内容が面白く、共感したり考えさせられたりすることも多い。夏川純ちゃんのかわいいチャイナ服見たさというのもあるけど。

 さて、今週のお題は 『“下流志向”の君へ』 だった。最近の、なんでもあきらめた考えをする人たちの話だ。

 中学生、高校生ぐらいの子供たちが、「いつか死ぬのだからなにをやっても無駄」、「勉強したところで将来役に立つとは思えない」 と考えるのはよくあること。実際私も、そんなようなことを考えていた時期があった。思春期というやつだ。

 ところが、私が気になって共感できなかった部分がある。それは、「“偉くなりたい”と思う高校生が日本では少ない」、「のんびりと生活したいと思う高校生が日本では半数」 という調査報告を出して、それがさも大問題のように表現している部分だ。

 テレビ番組に出ているタレント、企業を経営している人、大学で教授になるような人、さらにテレビ番組を作っている人達は、上昇志向の塊のような人がほとんどだ。そんな人たちが作る番組なので、“まったり志向” の人たちが理解できずに悪者に仕立て上げようとするのだろう。

 この番組にかかわらず、ワイドショーや報道番組を見ても、日々そつなく平穏に暮らす人たちをとかく非難する傾向が見られる。

 だが私には上昇志向が必ず正しいとは、どうしても思えない。

 私の経験から、上昇志向の強い人が周りを巻き込んで、周りの人を混乱に落としいれたり、無用な対立をまねいたりしたのを何度も見ているからだ。強い上昇志向は、本人は幸せかもしれないが、関係した多くの人を不幸にする場合が圧倒的に多い。

 もう一つ、「努力すればいつか報われる」 という現実に即さない煽りも、私には不快に感じた。

 だからといって 「必ずしも報われないのだから、努力しても無駄」 などとは、私も思わない。“努力” はすべきなのだ。ただ、努力したからといって “その努力が必ず報われるとは限らない” ということを覚悟しておいてもらいたい、と思っている。

 実際に私は自分の子供には、「努力をしなければ成功しない」、「だけど努力をしても自分の思い通りにならないことも多い」、「思い通りにならなくても、努力の過程で身につくものが必ずある」、「だから努力をしろ」 と教えている。「努力をすれば報われる」 などと現実には保証できないことを子供の頃からすり込まれて、1回の失敗で立ち直れなくなるような人間になって欲しくないからだ。

 そんなことをモヤモヤと考えていたら、別な番組でとても共感できる話をしていた。

 それは、イタリアの科学者 『ガリレオ・ガリレイ』 の生涯を戯曲にした 『ガリレイの生涯 (岩波文庫 赤 439-2)』の一説である。

弟子 「英雄のいない国は不幸だ!」
ガリレイ 「違うぞ。英雄を必要とする国が不幸なんだ。」

 この短いやり取りの中に、真理の一つを見た。

 前々回に書いた “オバマ氏、米国大統領に就任に思う” でも似たようなことを書いた。「ブッシュ氏が米国をめちゃめちゃにしたために、オバマ氏が選ばれた」 と。日本でも英雄待望論が強くなってきていることから、やはり日本も不幸になってきているのだろう。

 そう考えれば、「食える分だけ働いて、のんびり暮らしていきたい」 と思うことは、決して非難されるようなことではないと思う。それだけ国や社会が幸せであるということでもあるのだから。

 しかし、今後は日本の中高生も 「偉くなりたい」、「金持ちになりたい」 という子供達が増えてくるのではなかろうか。それは日本の(役人でもなく政治屋でもなく)国民が不幸になったことでもある。

 私自身も流れを変えてくれる政治家の出現を望んでいるということは、日本が不幸になりつつあることを、ひしひしと感じていることに他ならない。

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2008/10/18

サイゼリヤ社長の理念、イイね

teruyastarはかく語りき
サイゼリヤがすげーw
[2008年9月14日]

 ほんとにサイゼリヤがこんなポリシーを持って経営しているのならば、こんな社長の下で働いてみてもいいかなと思えた。

 以前にも何度か書いたが、私は 『根性』 とか 『精神力』 とかが大嫌いだ。また、通常は持てる力の80%で仕事をすることを、ポリシーにしている。

 そんな私だから、

「疲れないで、楽をすればもっともっと大きくなる」

というサイゼリヤ社長の理念が、とても心地よい。

 世間一般には、『楽な仕事などない』 などといわれて、あいかわらず過労死する人が後を絶たない。サイゼリヤ社長の理念は、その逆をいっているわけである。

 実際その理念で、経営が成り立って事業が拡大しているわけだから、誰もその理念が間違っていると否定することが出来ないはずだ。

 ごまかしたり、だましたり、嘘をついたりして、楽をするのは論外だが、誰にも迷惑をかけないで楽をするならば、なんら問題ないはずだ。

 知識も能力もない人が苦労した仕事は褒められて、同じ事を知識や能力がある人が苦もなく仕上げても褒められない。たしかに、「能力の高い人ならさらに高度な仕事をすべき」 という考えもあるだろうが、同じ結果に対して評価が違ってくるのは、私個人としては納得できない。

 抽象的な説明でわかりにくければ、こんな具体例はどうだろう。

 同じ書類を作るのに、慣れた人なら1時間で出来て残業なし。他方、慣れない人が5時間かかって残業4時間。だったとする。同じ作業、同じ成果なのに、一方は残業代なし、他方は残業代4時間分。給与という評価だけを見れば、能力の低い人の方が高く評価されている。

広告・宣伝はしない
理由が面白くて「お客さんがきたら疲れるから」w
冗談で言ってるのかなと思ったけど、
どうも本気みたい。

 その昔、働いていた会社の近くに安くておいしくてボリュームのある弁当屋があった。週に3~4日は、そこの弁当を昼食にしていた。その後、1年半、私は米国にいって仕事をしていた。そして1年半後、日本に戻ってくると、その弁当屋は喫茶店に変わっていた。

 会社の同僚に話を聞いたところ、私が日本にいない間もその弁当屋は繁盛していたそうだ。ところが突然閉店することになったとか。同量が店員に閉店の理由を聞いたところ、「忙しくなりすぎたから」 だったとか。

 それを聞いた時、まだ若かった私は 「そんなバカな」 と思ったものだった。しかし、今はその 「忙しくなりすぎたからやめます」 という気持ちがなんとなくわかる。

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2008/09/29

“やさしい” ことが一番大切だとは思わない

遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」
イエスマンの恐怖

 遙 洋子
  NBonline [2008年9月26日]

 前回に引き続き、遙女史の上のコラムから考えさせられたことを、もう一つ記事にしてみた。『やさしさ』 についてだ。

 遙女史のコラムで、友人がトラブルに巻き込まれた話がある。はっきりとは書かれていないが、おそらく遙女史はその友人に 「あたなにも非がある。」 といったような話をしたのではなかろうか。だから、翌日に遙女史を非難する電話が友人からあったと、私は理解した。

 その友人には、

  • 激怒して泣いてくれる人、自分の主張が正しいという人 = やさしい人
  • 自分の主張に非があると非難する人 = やさしくない人

という構図が出来上がったのだろう。

 当然、信頼できる人たちは、自分に “やさしい人” たちだ。

 よくある質問で、「どんな男性を彼氏にしたいですか?」、「どんな男性と結婚したいですか?」 という質問に、一番多いと思われる答えが 『やさしい人』 だ。

 私が問題にしたいのは、その “やさしい” の意味だ。

 多くの場合に私が感じるのは、

  • 『やさしい』 = 自分の要求を何でも聞いてくれる、間違っていても正しいといってくれる

という意味で “やさしい” と使っているケースだ。

 別に間違っているとは言わないが、私には大きな違和感がある。

 『やさしい人』 の意味も、“自らを犠牲にして、自分に利益をもたらしてくれる人” という意味で使われるケースが多いように思う。

  • 終電に乗り遅れたから電話で呼び出しても、真夜中に文句一つ言わずに車で迎えに来てくれる人
  • 一緒に食事に行くと、どんな高いものを食べても、ニコニコして食事代を払ってくれる人
  • 待ち合わせの場所に何時間待たせても、じっと待っててくれて、文句を言わない人

 そんな人たちを 『やさしい人』 と呼び、自分が相手に要求したことが嫌がられたりすると 『やさしくない人』 と呼ぶ。

 なんでそんなことが気になるかと言えば、私自身が 『やさしくない人』 と言われ続けたからだ。今もカミさんや子供に 『やさしくない』 と時々言われる。

 たしかに、言い方がやさしくなかったな、と反省した時期があって、歳を取ってからは、言い方を工夫するように努力している。

 それでも本質は変わっていないと思う。

 例えば、子供に “やさしい” お父さんと思われたいがために、子供にとって都合のよい父親になるつもりは、毛頭ない。

 子供に泣かれようが、わめかれようが、『夜は早く寝る』、『欲しいからといって何でも買ってもらえるわけではない』、『好き嫌いせずに出されたものは食べる』 といった、子供にとって都合の悪いことでも、私の方が妥協することはない。

 子供にとって都合のいい “やさしい” 親になったあげくに、子供が成長したときに、子供が社会に適応できない、なんて結末を、私は見たくないからだ。

 人にやさしくされたい、甘やかされたい。人から自分の悪いところを指摘されたくない。と思うのは、当たり前だし、別に間違っているとは思っていない。

 だが、やさしさだけを追い求めるあまり、自分にとって厳しいものを排除していくと、結局は自分自身がダメになっていくと思うのだ。

 世の中、自分の思うようなることの方が少ない。だからこそ、自分にとって都合のよい “やさしさ” を求めるようになるのも仕方がないことなのだろう。

 そんなご時勢だからだろうか、 「“やさしい” ことが一番大切」 「やさしくなければいいけない」 的な風潮あるように感じられる。私には、それがひどく居心地が悪く感じるのだ。

 与える側が “やさしい” のはかまわない。

 だが、求める側がひたすら “やさしい” ことを求めるのは、そしてそれを冗長するような風潮が、ストレスの多い社会を生み出しているような気がして、仕方がない。

 “やさしい” という言葉が好きではない私が、逆に心がけているのが “思いやり” だ。

 思いやった結果、やさしく接することもあるだろうし、厳しく接することになることもあるだろう。

 思いやった相手にとって、一番良い結果をもたらすと思うことを、私はするように心がけている。それは、“甘やかす” ことかもしれないし、“怒る” ことかもしれない。少なくとも、私にとっては  “思いやり”≠“やさしさ” なのは確かだ。

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2008/09/28

失敗を考えなければ失敗しないわけではない

遙 洋子の「男の勘違い、女のすれ違い」
イエスマンの恐怖

 遙 洋子
  NBonline [2008年9月26日]

 遙洋子女史のコラムは、賛同できるときもあるものの、賛同できないときも多い。だが、上記のコラムに対しては、全面的に賛同できる。

 私自身、似たような記事を過去にいくつか書いている。例えば、

などだ。

 自分の記事は一つの企業、一つのチーム内での人事がハッキリしている場合の話だ。一方で、遙女史のコラムはフリーランスの立場や友人としての立場で書かれている。だが、言わんとしている本質がほとんど変わらないところを見ると、『聞きたくない話は、聞かないようにする』 という行動は、やっぱりなんにでも当てはまるということだ。

 私は自分のカミさんに、ことあるごとに

「なんで、毎回、私の意見に反対するの?」
「なんで、そんなにネガティブなの?」

と食って掛かられる。

 だが、ほとんどの場合自分に都合のいいようにしか物事をとらえようとしないカミさんの行動や予定は、私にしてみれば、危なっかしくてしょうがない。リスクマネージメントが無いに等しいからだ。

 だから私は毎回、うまくいかなかったケースを想定して、カミさんがやろうとしていることの危険性を指摘するのだが、それがカミさんには面白くないらしい。

 いつの時代からの精神論なのかは知らないが、日本では古くから 『言霊』 という考えが広く根付いている。つまり、「失敗するかもしれない」 と言ってしまうから、失敗するのだという精神論だ。

 その裏返しで、「成功することだけを考えれば、必ず成功する」 とする精神論を唱えるケースもよく目にする。

 だが、実際にそんなことはありえないわけで、成功する確率を高めたいのであれば、失敗する条件を一つでも多くつぶしていくことが必要になる。

 失敗するケースから目を背けているのであれば、恐怖に直面したときに地面の穴に首を突っ込むダチョウとなんら変わらないではないか。

 イエスマンしか近づけない人は、自分を褒め称えて、自分が正しいという意見を聞いて、根拠のない安心を得たいだけなのだと思う。自分に否定的な意見を聞くと、自分がさらに悪い方向に引っ張られていくような、やはり根拠のない、不安感を持ってしまうのだろう。

 自分の問題点に直面しても、不必要に不安になることもなく、冷静に対処出来るようになるのに必要なのは、

  • (正しく理解した) 知識
  • (失敗から得た) 経験
  • (正確な) 情報

だと、思う。

 「突き詰めれば、その人の “気質”、“性格” だよ。」 と言われてしまえば、「まぁ、そうなんだけどね。」 としか答えようがないのも事実なのが、私にとって虚しいところではある。

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2008/04/04

はたして宇宙旅行に私は行けるだろうか

 以前に 「旅行は嫌いだ」 と書いた私だが、死ぬまでにしたい旅行が三つある。

  • 大型化客船による世界一周クルーズ
  • 南極大陸
  • 衛星軌道もしくは月での滞在

 世界一周クルーズは、今でもお金さえ出せば参加することが出来る。ただ、今行われているツアーは寄港地が少ないのが気に入らない。

 南極大陸旅行は、1999年の新聞のツアー募集広告で見た。確か、2000年1月1日を南極大陸上空で迎えよう、というものだったと思う。窓際の座席と通路側の座席で、料金が1.5倍くらい違うのに大笑いしたのを覚えている。

 だが、私がしたいのは、南極大陸上空を旋回する程度のものではなく、南極大陸で何日か滞在をして、隕石を拾ってみたい、といったものだ。

 今のところ一番実現しにくいのが、宇宙旅行だ。今日もこんな記事があった。

1人203万円の時代も到来?夢ではない「宇宙旅行」の現実
 国内internet.com [2008年4月4日]

 今のところの現実的な価格の “宇宙” 旅行は、ヴァージン・ギャラクティック社の

フライトは約2.5時間で、地表から110km上空にまで達し、5分間の無重力体験ができる。旅行の価格は、約2,030万円。

 さすがにこれを “宇宙” 旅行と、私は呼びたくない。

本格宇宙旅行(軌道飛行)
ソユーズに搭乗して宇宙へ出発し、ISS に滞在しながら軌道飛行を楽しむプラン。ISS での滞在は8日間で約30億円、オプショナルツアーの宇宙遊泳は約18億円。

 せめてこのぐらいの滞在期間は欲しい。が、旅行費用が 問題外の外 だ。

 私が考える宇宙旅行は、

  • 出発前に長期間の訓練を必要としない
  • 滞在期間が一週間以上
  • 費用は世界一周クルーズ並み

といった感じになる。

 果たしてこの条件で宇宙旅行が出来るのは、何年先になるのだろうか。飛行機が発明されてから、民間の旅行に使われるようになるまで、約30年。大衆化するまでには、60年以上かかっている。

 有人宇宙飛行が実現したのが、1961年。それから40年以上経ったて、ようやく民間旅行の計画が始まった。民間旅行の開始には、いま少しかかるだろう。仮に、飛行機の時の1.5倍、時間がかかると仮定すると、宇宙飛行の大衆化まで90年、2050年頃ということになろうか。

 2050年頃には、私は80代半ばだ。私が宇宙滞在旅行をするのはなかなか厳しそうだ。今後、医療の進歩がどこまで進むかわからないし、三浦雄一郎氏が70歳でエベレスト登頂に成功しているので、80代での宇宙旅行も不可能ではないかもしれない。とりあえず、そこに賭けるしかなさそうだ。

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2008/04/02

時には言い訳を認めてあげることも必要

 子供の頃は、しかられた時に言い訳しようとすると、「言い訳なんかするんじゃない!」 とよく怒られたものだ。

 しかし、大人になった今、人間関係を良好にしていくためには、ある程度 “言い訳を言えるようにさせる”、“言い訳をある程度認めてあげる” ことが重要なのではないかと思っている。

 我が家では、私が家事全般をおこない、カミさんが外にでて働いている。カミさんが外で働くことは、カミさん自身の希望であった。

 で、だいたい予想されるように、疲れて帰ってきたカミさんは 「働いて疲れて帰ってきてるんだから、ゆっくり休ませてよ!」 と言うことがある。多くの家庭では、ダンナが言うセリフだと思うが。(^_^;)

 そんなときに私が 「自分が望んで働きに出ているんだから、そんなこと言うな!」 と言ってしまったら、間違いなく喧嘩だ。

 だから私は、“外で働いている” という言い訳を許して、それを “認める” ことで、カミさんのストレスを発散させている。

 自分を振り返ってみればわかるように、自分でも “言い訳” だとわかっていながら、それでも言わずにはいられないという時があるものだ。そしてそんなときは、言ってしまった後から、心の中で落ち込んだりするものだ。

 自分でもわかっているからこそ、自分以外の人にその “言い訳” を否定されると、いっそう強く反発もしてしまう。

 夫婦の間の話に限らない。親と子、友人、上司と部下の間、等など、相手に言い訳の余地を残して、それを認めてあげることで、相手との関係を良好に保てる場合は多いのではなかろうか。

 とはいえ、無制限に相手の言い訳を許してしまっては、何も反省をしない、何の責任も取らない人間を作ってしまう。相手にぞっこん惚れ込んでしまっている場合や、相手の経済力に自分の生活が依存してしまっている場合に、よく見られる光景だ。

 無制限に相手の言い訳を許した場合の結末は、むしろ悲惨だ。浮気をしまくった彼氏に最後は切れて彼氏の持ち物をすべて売り払ったり、子供が独立もしくはダンナが定年退職と同時に妻が離婚を切り出すとか。

 どこまでが許容範囲で、どこからが危険領域なのか、人間関係には明確な数値や公式があるわけではない。コンピュータのようにルールが厳格なモノの方に安心感がある私には、なんとも厄介な代物だ。だから私はいまだに四苦八苦している。

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2008/03/26

下がいると思って開き直ってもいいじゃない

 今の世の中、市場経済、資本主義、といった企業中心社会になってしまったため、ついつい 「企業が目指す目的こそが正しい」 といった情報ばかりが世の中にあふれてしまっている。

 確かに企業活動抜きに今の日本社会は成り立たない。が、ちょっと待って欲しい。本当に企業にとって正しいことが、個人個人にとっても正しいのか、個人にとっても幸せなコトなのか。そうではないと、私は思っている。

 特に最近の “食品偽装問題”、“保険金不払い問題”、“耐震強度偽装問題” など、企業にとって利益を優先させすぎたために、大多数の人たちが貧乏くじを引かされている事を見ても、企業の論理が常に正しいわけではないことがわかる。

 ところで企業内部では、そこで働いている人が、その会社の求める人間像を強制される。

 どういうことかといえば、企業は売り上げを伸ばして業績を拡大することを大前提にしている。簡単に言ってしまえば、「企業を成長させる」 ということだ。そして、企業を成長させるために、そこで働いている人にも常に成長を要求する。そして、現状維持でよしとする社員は、“不良社員” として切り捨てられていく。

 しかし、ほとんどの人は無制限に成長できるわけではない。能力にしても身長にしても、成長には限界がある。にもかかわらず、企業の中では絶え間ない成長を要求される。

 それが絶対に間違っているといいたいわけではない。ただ、ビジネス書で、「成長しつづけなければ価値がない」 のように書かれていることが、私には気に入らないのだ。

 例えばこの記事。

デキルヤツノ条件     
下には下がいると思いたまふことなかれ
 降旗学
  NBonline [2008年3月21日]

 この記事の趣旨が “デキルヤツ” になるための指南書なので、この記事そのものを非難するつもりはない。このシリーズではこの内容でいいと、私も思う。

 とはいえ、世の中全体としてみた場合、

「自分よりも下の人がいるんだから、少しは安心してもいいよね」

と思うことは、私は悪いことじゃないと思っている。

 手が届くかわからない上ばかりを見上げ、疲れ果てた挙句に、自暴自棄になるよりも、一休みをして下を見下ろし、「結構上に上がってきたじゃん」 と自分をほめてあげてもいいんじゃないかと思っている。

 その後、やっぱりもう一度上を目指したいと思って努力するのもその人の生き方だし、そこまでの成長段階を維持することに切り替えるのもありだと思う。

 ただ、さらに上を目指すにしても、現状維持を選択するにしても、同じ部署、同じ会社で働き続けられないかもしれないことは、覚悟しておいたほうがいいかもしれない。

 所詮、自分の思うようには、物事は進まないもの。

 繰り返しになるが、一部の人が書いていることだけをむやみに信じて、選択肢の幅を狭めることはない。時には、世間に広く受け入れられている話でさえも疑ってかかり、本当に自分が安心できる選択肢を選ぶことが、結局は自分の幸せにつながると思う。

 かくいう私も、たいした考えもなく最初に大企業に就職したときは、「転職など出来ない。転職したらそれで私の人生は終わりだ」 などと考えていた時期もあった。しかし、その会社で働く意義を見失ってしまい、数ヶ月悩んだ末に、「そうか、転職して会社を移ってしまえばいいんだ。」 と “思いついた” とたん、急に目の前が明るくなったのを今でも覚えている。

 その後まもなく転職を果たし、転職した会社も今は辞めた。でも、「人生が終わった」 などとは少しも思っていない。むしろ、今まさに自分のやりたいように人生を送っている実感がある。

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2008/03/21

子供を忘れ去るケータイ中毒ママ

 昨日も “CBSドキュメント” を見ていた。話題の一つとして、麻薬の治療法を取り上げていた。私が注目したのはその治療法ではなく、その治療法を受けている一人の女性のコメントだった。

「麻薬精製中に爆発事故を起こし、三人の子供を当局に取り上げられてしまった。それでも麻薬を止めることができなかった。子供を失っても、麻薬ディーラーのところに行くことしか頭になかった。」

というのだ。これを聞いて、つい先日読んだブログの一つを思い出した。

まさゆきブログ「世界一小さい新聞」
ケータイママの「瞬間子捨て」時代
 [2008年3月14日]

 注意を払うべき子供をすっかり忘れて、手に持っているケータイにひたすら没頭する。確かに私も街中で時々目にする光景だ。

 ケータイに限った話ではないのも事実だ。公園でママたちが話しに熱中するあまり、子供たちが危険な状態にあるのも気がつかない。パチンコに熱中するあまり、駐車場の車内に置いてきた乳児を死亡させてしまう、等など。

 ただ、場所や相手の都合に依存しないケータイへの過度の集中は、公園での雑談やパチンコなどよりも致命度が高いようにも思う。

 以前すでに “ケータイ依存症” についての記事を書いている。しかし、ここまでくると “ケータイ中毒” と言い換えたほうが、私のイメージにはピッタリとする。

 依存症 も 中毒 も言い方を変えただけで、意味は同じだ。しかし、私が受け取るイメージは、依存症と中毒で異なる。なんというか、“中毒” のほうがより実生活に支障をきたして、周囲への迷惑度も高いイメージがある。あくまで私のイメージでしかないが。

 とにかく、起きている間ずっとケータイを手放せない人、友人と話をしているときもケータイから目を離せない人、ケータイを操作していると周りのことが一切気にならなくなる人、達は、一度生活スタイルを見直したほうがよいのではないかと、他人事ながら心配してしまう。

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2008/03/04

現代女性が期待していることは……、よくわからん

車道側を歩く、コートを着せる、「髪形変えた?」etc. せっかくの気遣いが逆効果になっていたなんて……
女たちが糾弾 「男のその親切、いらない!」の衝撃
どんなにゴリゴリの女性解放論者だって、高い場所にあるものを男に取ってもらって腹を立てることはないだろう。親切は概ね快く受け入れられる……男たちはそう思っているが、しかし、女にしてみれば結構迷惑らしいのだ。やんなっちゃうね。どうすればいいと?
 SPA! [2008年3月3日]

 カミさんの気持ちもいまだによくわからん時が多い私にとっては、こういう記事を読むとますます女性の気持ちがわからんようになる。

 結局、好きでもない男には何をされても気に入らないということなのだろうか。

 にしても、こういう内容ばかりがマスコミに取り上げられると、ますますこういう男達が増えてしまう気がする。私もまさにその世代なので、そういう男達の気持ちがわからなくもないので、複雑な気持ちになる。

 私が20代の頃は “三高”(高学歴、高収入、高身長) が花盛りで、あるテレビ番組に出演していた一般女性が 「愛があれば年収1000万円でもやっていけると思います」 とまじめな顔で答えていた。それを見て、本気で殺意を覚えたものだ。

 今の世の中、政治も経済も恋愛も、“言ったもの勝ち” の “ゴネ得” がまかり通るご時勢。

 「フェアであることが快適な生活につながる」 と信じている私にとっては、なんとも生きにくい世の中になってしまったものだ・・・。

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2008/02/29

Millennial世代

 毎週 “CBSドキュメント” を見ている。これは、米国で放送されている “60 Minutes” を日本人向けに放送しているものだ。

 今週の話題の中に “Millennials Are Coming” があった。米国では、昨年11月に放送されており、インターネットで見ることができる。

 内容はというと、当ブログ一番人気の “シュガー社員” の話であった。多少の違いはあるものの、

  • ほめられるのが当たり前
  • 怒られるとすぐに会社を辞める
  • 何かにつけて親が立ち入ってくる

など、とにかく共通点が多い。シュガー社員以前に書いた “ほめるだけでいいのか?” の内容もしっかりと入っていた。曰く 「自分が大好きで、ほめ言葉だけを要求する」 若者ばかりだとか。

 親離れできないエピソードでは、大学の教授に学生が話しかけて 「成績に納得がいかないから、親と電話と話をしてくれ」 といったそうだ。Millennial世代は、学費を払っているんだから、A評価をもらうのは当然だと思っているらしい。今の日本風に言えば “モンスター・ステューデンツ” というところか。

 仕事や出世よりも、友人や家族を何より優先するのも Millennial世代の特長だとか。その原因は、親の世代が会社に人生のすべてを注いだのに、あっさりと解雇されたことを目の前で見ているからとか。この辺は、バブル後世代の日本の若者とよく似ている。

 そして何よりこのレポートを見て一番強く思ったことは、

「予想通り、今世紀後半は米国は勢いを失うな」

ということだ。もっとも、その頃には私は生きていないだろうから、あまり関係ないことなのだが。

 このような若者達を抱えて米国が失速をするならば、似たような若者を抱える日本も当然失速するするだろう。

 考えようによっては、馬車馬のように働かず、必要最低限の贅沢で十分という生活は、地球環境を維持していかなければいけないこれからの時代には、案外適応しているのかもしれない。

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